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オオサカタロウ
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novelistID. 20912
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Jane Doe

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 それは雇い主の言葉だった。顔を見たことはない。それどころか、いつも電話で聞こえてくるのは、人工喉頭のような、機械的に変質させられた声だった。その声を聞くべきだろうか。携帯電話を眺めながら、電話をすべきかどうか迷っているが、すでに数分が経っている。鈴野は、遠目に見えるユニオンの看板を眺めながら、確信が持てないでいた。伊波には十五分後と言ったから、あと十分が残されていることになる。しかし、今日はあまりにも警察の目が多い。
 二年前、組んでいた男は丸山という名前で、深夜に静まり返った公園の駐車場で、停まっている車に向けてライフルの弾を放った。弾はドアに命中し、シートを倒して寝ている男の頭を貫通するはずだったが、ドアの部品にぶつかって進路が逸れ、『運の悪い男が、仮眠中に銃で撃たれかける』というニュースになっただけだった。その男も丸山も、それ以来『行方不明』だ。男は別の形で処理されたのだろうが、丸山の末路は知っている。鈴野がある日、雇い主に電話で尋ねたとき、人工喉頭の声はこう返した。
『誰も、丸山には会えない。会いたいか?』
 それ以来、頭にも浮かべないようにしている。雇い主は、徹底した公平さで知られている。命を奪うことで金をもらっている人間が失敗した場合、自分の命を差し出さなければならない。後から聞いた話だが、自分の目で標的を確認せずに引き金を引いた丸山の死体には、両目がなかったという。鈴野は意を決して、携帯電話を手に取った。雇い主は数回鳴らしただけで、電話口に出た。鈴野が様子を伺っていると、機械を通した雑音交じりの声が届いた。
『話せ』
「仕事は続行ですか? いつもより賑やかですよ。パトカーがうろうろしてます」
 雇い主はしばらく黙っていたが、その沈黙で続行だということは、鈴野にも分かった。
『続けろ』
「承知しました」
 鈴野は電話を切った。別に誰かを殺すわけではないのだ。何年もやってきたように、伊波と晩飯を食べながら世間話をして、スーツケースと金を交換して帰るだけだ。
    
 高速道路へ入る道に、検問が敷かれている。理奈はサンバーの運転席から、遠く先に光る赤い光を眺めた。車の外見をじっと見つめている警察官が、ぼんやりと光る誘導棒を持って次々にやり過ごしている。目の前まで来て、それが交機の種林であることに気づいた理奈は、窓を下ろした。
「あー、理奈さん。こんばんは」
『ユニオン』と書かれたサンバーバンが容疑者の車であるはずもなく、通行人が興味深そうに注目し始めたが、種林はヘルメットを被った重そうな頭を少しだけ下げた。理奈は言った。
「検問、大変ですね」
「いえいえ、事件があったんですよ。知ってます?」
「さっき署にお邪魔して、強盗があったとか……」
「それ。なんかねえ、物騒なんですよ」
 種林はしかめ面で言った。理奈はダッシュボードから割引券を五枚出して、種林の制服のポケットに差し込んだ。警察や消防向けの割引券は、ほぼタダに近い。
「喉が渇いたら、また皆さんでいらしてください」
「あはは、ありがとうございます」
 種林は隠すように笑いながら、理奈が触れたポケットを押さえて、制服の型が崩れていないか確認すると、頭を下げた。
「あ、そうだ。もし見かけたら教えてほしいんですけどね。珍しい車じゃないんだけど。黒のカローラフィールダー」
「その、犯人の車ですか?」
 種林はうなずいた。理奈は前ががら空きになっていることに気づいて、慌てたように眼鏡をずり上げた。
「すみません、流れを止めちゃった。じゃあまた」
 再びサンバーを走らせながら、理奈は止めていたテープを巻き戻した。大げさな音を鳴らしてテープが止まり、一曲目が流れ出した。グランドファンクのタイムマシーン。細い指で軽くハンドルを叩きながら、理奈は高速道路のわき道に入り、国道に続く生活道路を上り始めた。
     
     
二〇〇九年 九月 夜 十年前
  
「どうしたの?」
 理奈が訊くと、アルトラパンのタイヤの前に屈みこんだ耕助は、かぶりを振った。香苗は懐中電灯でタイヤを照らしていたが、小さくため息をついて、スイッチを消した。真っ暗になってかろうじて後頭部が見えるぐらいになった耕助は、呟いた。
「タイヤが……」
 理奈は、教習所の夜間講習から帰ってきたばかりだった。タイヤの交換の仕方を、二人は知っているのだろうか。顔を見合わせる二人を見て、理奈は少し優越感を感じながら、教則本に書かれていたタイヤの交換方法を頭に思い浮かべて、耕助に言った。
「一本だけ?」
 耕助は首を横に振った。フロントは二本とも空気が抜けて、真っ平らになっている。香苗が言った。
「このご時世、見えるところに置いといたら、危ないのかしらね」
「ブルーシートかけるわけにもいかないだろ」
 耕助は配達用のサンバーバンを見て、諦めたように腰を上げた。
「ユニオン号で帰るか……」
 理奈は、サンバーバンを見つめた。カタカナで書かれた『ユニオン』というロゴに、少し錆びてきた黒のホイール。働き者だ。壊れるどころか、疲れた様子なんて見たこともない。その少しだけ色あせた車体を見ながら、思った。いつか私も、これのハンドルを握る日が来る。
 運転席に耕助が座り、エンジンがかかるのと同時に、助手席へ香苗が乗り込んだ。理奈はスライドドアを開いて、普段は畳んである後部座席を転回し、ベンチのような座席に腰を下ろした。車が動き出すと同時に揺れた空気のどこかに、料理の温かい匂いが残っていて、理奈はサンバーバンの後部座席を、特に気に入っていた。
「ディーラーに電話しないとな。いや、近所のスタンドから来てくれるかな」
 耕助が言って、香苗がこの世で一番気が重い出来事のようにため息をついた。理奈は言った。
「私、明日交換するよ」
 耕助が振り返って、目を丸くした。理奈は笑いながら道路を指差した。
「危ないじゃん、前を見てよ。今日、教習所で習ったんだ。タイヤぐらい、交換できるよ」
 教則本を取り出すと、理奈は携帯電話のライトで細かい字を追い始めた。
  
  
二〇一九年 十月 夜 現在
  
「そろそろ、席に戻らないといけない」
 伊波はそう言うと、スーツのしわを伸ばすように体を払い、元のテーブル席に戻った。村瀬はカウンター席に座り、耕助と香苗に注目した。入口に背中を向けている形になるから、ドアが開く音で人が入ってくるのは分かるが、直接様子は伺えない。しかし、そんな重要人物が入ってくれば、耕助と香苗の表情に表れるはずだった。カウンターの裏にしゃがみこんでいる里川はもっと状況がつかめないだろうが、耳打ち程度なら二人と話すことはできる。有線からは甘ったるいポップスが流れているが、耳は研ぎ澄まされ、砂利に車が入ってくる音すら聞こえるようになっていた。伊波が新聞を広げたのを横目で見ていると、香苗がレバニラ定食を運んでいった。伊波は箸を割ることもなく、窓の外を一度見ると、新聞を閉じた。
 切り返すタイヤが砂利をかき分ける音。村瀬は無意識に左手を隠した。自分たちが入ってきたとき、ドアを開けるのと同時に鈴が鳴った。その音が背後から聞こえている。
「ほらな。やっぱここだったんだ」
作品名:Jane Doe 作家名:オオサカタロウ