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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Jane Doe

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「あんた、言ってることが無茶苦茶だぞ。そんなことはできない」
 二人の様子を意に介さない様子で、伊波は続けた。
「五千万の取引をしても、おれの懐に入るわけじゃないからね。正直、うんざりしてたんだ」
 村瀬と里川は顔を見合わせた。伊波は笑った。
「ただ、おれは雇い主に聞かれたら、手を怪我した男とデカイ奴に奪われたって言うけどな」
 しつこく鳴っていた着信音が止まり、不在着信として記録された。伊波はお手上げという風に両手を上げた。拳銃を向けられたときとは違って、その手はひらひらと振られていた。
「出られなかったから、この話はなしだな。こいつ、めちゃくちゃ用心深いんだよ」
 村瀬はしばらく黙っていたが、里川の目を一瞬見た。里川は、村瀬が何を考えているのか瞬時に理解したが、何も言わなかった。村瀬は携帯電話を伊波に差し出した。
「こっちからかけろ」
 耕助は二人の会話をずっと聞いていたが、香苗が肘をつついていることに気づいて、視線を向けた。
「ねえ、あの二人がやったって言えばいいのよ」
「お前まで、何を言ってるんだ。そんなの、すぐにばれるぞ」
 そうは言ったものの、耕助と香苗の人生は、どれだけ客観的に文字に起こしたとしても、その苦労があちこちに滲み出るような、酷いものだった。耕助は頭の中で出来の悪いそろばんをはじきながら思った。仮に二千万円が懐に入って、全てが間に合えば。
 人生を再びがらりと変えるには、十分かもしれない。
   
   
二〇〇九年 八月 夜 十年前
   
 宇宙にでも行けそうなぐらいに、たくさんのスイッチやツマミのついたオーディオと、古い洋楽。もともとは香苗の趣味で、ユニオンに運び込んだ数少ない機器のひとつだった。理奈は再生と巻き戻し、録音ぐらいしか使うつもりはなかったが、まず骨董品のAU9900の操作方法を覚えない限り、スピーカーから正しい音を出すということ自体、おぼつかなかった。一旦仕組みを覚えてからは、オーディオの前に置かれた事務椅子は、休日の定位置になった。店内にはボロボロのスピーカーを通じて流れるから、音質は病院の館内放送とさほど変わらない。しかし、二階の事務所の中は音響室そのもので、小型の冷蔵庫のような大きさの、JBL4344が設置されていた。
 夜七時。さっきまでお客さんは四組いて、今は最後の一人が冷やし中華を食べている。二階に戻ってきた理奈は、新たにレコード盤をセットして針を落とした。ドアーズのロードハウスブルース。忙しいときは作り置きしたテープを流すだけだが、用事がなければ、気分で都度入れ替える。一階に携帯電話を置いてきたことに気づいた理奈は、階段を下りた。お客さんが冷やし中華を食べる音に混じって、厨房から耕助の声が聞こえた。小声で、誰にも聞かせたくないような、通らない声だった。そして、そういう声は大抵、香苗が拾うことになっている。
「一体、いつまで続くだろうな」
 真っ黒に変色したフライヤーの前で、耕助は壁に話しかけていた。跳ね返った声を隣に立つ香苗が拾っている。理奈は携帯電話を手に握りしめたまま、耳を澄ませた。香苗は言った。
「分からない。でも、こうなることを私たちが選んだのよ」
 耕助にとっては、それだけで説得力は十分なようだった。それでも、カレンダーを見つめながら、自分に呆れたように笑った。
「もう、五年経つんだぞ」
「地元の店になってきたわよ。常連さんもいるし」
 香苗が言うと、冷やし中華を食べていたお客さんが財布を取り出して香苗を呼び、会話は中断された。理奈は二階に上がり、さっきと同じ音量で流れているロードハウスブルースの音の中へ潜り込んだ。会話なんて聞こえそうにないぐらいのにぎやかな音量だったが、それでも、さっきの二人の会話は頭の中から割り込んできた。
「もう、続けたくないのかな……」
 理奈は独り言のように呟きながら、思った。耕助と香苗は、若い頃に修行を積んだ料理人だった。だからこそ店を持つ道を選んだのだと、勝手に思っていた。でも、その人が生きてきた人生を、今の姿から想像するのは難しいことだ。一緒にいるからこそ、尚更見えないのかもしれない。理奈は宙を向いて、流れ出す一歩手前で涙を止めた。
作品名:Jane Doe 作家名:オオサカタロウ