Jane Doe
村瀬はカウンターの後ろを伝って、四つん這いになったまま理奈の元へ追いついた。さっき一階に戻ったとき、耕助と目が合った。拳銃を滑らせてきたのは、その時だった。耕助がカウンターを蹴って位置を教えるつもりだということまでが、ほとんど何の打ち合わせもないまま、理解できた。しかし、致命傷を負わせることはできなかった。むしろ、余計に怒らせただけだった。しかし、理奈を一時的に解放することだけはできた。理奈は村瀬の顔を見ると、泣き笑いのような表情で言った。
「ありがとうございます」
村瀬の言葉を待つことなく、理奈は、呆気に取られたようにその場に座ったまま動かない亮也の手を取った。
「ねえ、ぼく。二階なら怖い人はいないから」
亮也はしばらく洋平と和佳子の顔を見ていたが、ようやく立ち上がると、理奈に向かってうなずいた。村瀬は、顔を押さえて呻いている鈴野の声を聞きながら、それでも顔を出せないでいた。相手は恐ろしく勘が鋭い。下手に姿を晒すわけにはいかない。理奈は言った。
「あの、少しの間見張っててもらえますか」
村瀬はうなずくと、拳銃を持ち上げた。言葉で明確に頼まれて初めて、鈴野と対峙する覚悟が決まった気がした。鈴野のうめき声が弱まり、幾分か冷静さを取り戻した呼吸音になった。
「もう終わりだ。雇い主に電話する。俺だって耳を撃たれたんだ。これで言い訳は通るだろ」
伊波に愚痴るような鈴野の声が、ひときわ大きく響いた。伊波の懇願するような返事が聞こえてきた。
「雇い主とおれは関係ない。もう今日は出て行って、後日改めようぜ」
「勝手に決めるんじゃねえ!」
その口調からすると、鈴野はこの状況に相当参っている。このまま二人で殺し合ってくれれば、どれだけいいか。村瀬はそう考えながら、現れたらいつでも撃てるように、死角から何もない空間を狙い続けた。
理奈は、三人の背中を押しながら言った。
「階段を上がって」
亮也は、二階へ上がる階段を見て、その薄暗さにパニックになったように、逃げだそうとした。理奈はその体を抱きとめて、言った。
「暗くてごめんね。上はホテルみたいだよ。ゲームとかもあるし。ね?」
亮也は理奈の腕から一瞬逃れようとしたが、その目を見ている内に、口元を固く結んでうなずいた。先に上がって様子を伺っていた洋平と和佳子が手を取ろうとしたが、亮也は理奈の背中に縋り付くように、一緒に階段を上った。
二階にたどり着いたとき、理奈は一度後ろを振り返った。事務所のドアを開けて中に三人を案内すると、オーディオの前に置かれた椅子を並べ替えて、そこに三人を座らせた。
「じっとしててください」
オーディオの電源を入れてボリュームを上げると、理奈はテープをデッキに入れた。壁がびりつくぐらいの音量で、プロコルハルムの青い影が流れ出したとき、亮也が理奈を手で呼び寄せた。洋平と和佳子は、二人が数分で幼馴染のように打ち解けていることに、驚いていた。理奈が耳を傾けると、亮也はその耳に直接話すように、耳打ちした。理奈は一瞬笑顔を作ると、頭を撫でながら言った。
「うん、だから大丈夫」
音楽でかき消されて、亮也が何と言ったのか、洋平と和佳子には聞こえなかった。理奈は無造作に放られたダッフルバッグを掴んで丸めると、自分のバッグを肩にかけ直して、事務所から出て行った。理奈がドアを閉めると、ほぼ全ての音が、防音構造になっている部屋の中に閉じ込められた。
突然流れ出した音楽に、鈴野は思わず二階を見上げた。音は相当籠っていて、メロディが分かる程度にしか伝わってこないが、店全体がライブ会場になったように震えている。雇い主から折返しの着信が入ったことに気づいた鈴野は、伊波に言った。
「あんたに代われと言われたら、俺は代わるからな。変な話はするなよ」
返事など待っている余裕もなく、鈴野は一度大きく深呼吸をすると、着信ボタンを押した。しばらくの沈黙の後、あの寒気がするような機械的な声で、雇い主は言った。
『話せ』
「強盗に遭いました。薬も金も無事なんですが、中継地点の連中と一般人を巻き込んじまって、大変なことになってます」
端的に十秒程度で伝えた。雇い主は長い話を嫌う。少しだけ間が空いた後、雇い主は言った。
『そこにいろ』
一階に下りてきた理奈は、村瀬の元にそろそろと近寄り、言った。
「拳銃を貸してください」
「どうするんだ?」
「今、ちらっと見えたんです。電話で話してます」
理奈は返事を待たずに、汗で滑る村瀬の手から拳銃を抜き取って、バッグに入れた。立ち上がると黒縁眼鏡にかかった前髪を払い、鈴野の前に全身を晒して、言った。
「銃を置け」
鈴野は、思わず四五口径を見つめた。今、雇い主から銃を置けと言われた。電話越しのその声は、相変らず機械的に変質されていたが、同時に目の前からも聞こえた。鈴野は理奈の顔を見つめた。その右手に、ボイスチェンジャーのような小さな機械が握られていた。理奈は小ばかにしたような口調で、言った。
「聞こえなかった?」
今度は理奈の声だったが、鈴野は慌ててテーブルの上に四五口径を置いた。雇い主は、この拠点を十五年に渡って見張ってきた。この地域で働く時は、絶対に服従しなければならない相手だ。それが、夫婦の娘? 頭に浮かんだ考えを打ち消す間もなく、理奈が言った。
「本当の親子じゃないの。私があなたの雇い主」
言いながら、十五年前、初めてこの店の前に立ったときのことを、理奈は思い出していた。屋代夫妻の娘として見張りを続けながら、中継地点としての働きを見守る。それだけではない。警察や消防に出入りして、様々な情報を集める。そう聞かされたとき、私は十四歳だった。生まれたときから家族はおらず、海沿いに建つ組織が管理するホテルの中で、育てられた。最初は人を殺すための英才教育を受けたが、私が本当に得意だったのは、感情を完全に隠せるということだった。屋代夫妻と過ごした十五年間で、親子に見えないと言われたことすら、一度もない。
「あんた……、いや、すみません。あの、ホテル育ちなんですか?」
鈴野は上ずった声で言った。その後ろで伊波が、自分のスーツケースを手に取った。
「そうだよ。十二歳のときに出たけどね。あなたは感情を隠せる? 嘘をつけるかって意味だけど」
鈴野はうなずいた。一瞬でも迷ったり、隙を見せたら終わりだということが、直感で分かっていた。理奈はつかつかと伊波に歩み寄ると、庇おうとした手ごと、頭を撃ち抜いた。
「あなたの言う、強盗に遭ったストーリーで行こうか」
「あ……、あの、すみませんでした。手荒に扱って」
鈴野が頭を下げると、理奈は眉をひょいと上げて、からかうように笑った。
「知らなかったんでしょ。仕方ないんじゃない。知っててやったの?」
鈴野が慌てて首を横に振ると、理奈は関心を失ったように宙を向いた。村瀬は、二人の会話を聞いていた。理奈は、完全に感情が消し飛んだガラス玉のように透き通った目で、村瀬を見つめた。
「あなたは、今追われてる強盗なのね。名前を教えて」