Jane Doe
村瀬は、カウンターを乗り越えたときにシンクに頭をぶつけ、その余韻で視界がぼやけたように感じていた。そんな衝撃も、銃声に比べれば何てことはなかった。頭から包丁を生やした里川の顔が頭の中をぐるぐると回り、それは吐き気となって心臓の動きに歩調を合わせ、胃を掴んでは離すというのを繰り返していた。あの店主にそんな力があるとは、思っていもいなかった。誰が生き残っているのか、カウンターの裏からは全く読めなかった。武器になりそうなものもなく、間合いを取った相手に拳銃を向けられたら、その時点で終わりだ。
里川はどうして、とんとん拍子で話に乗ったのだろう。それ以前に、腹が減ったからといって、どうしてこんな店に寄ろうと考えたのか。村瀬は後悔しても遅すぎることばかりを頭に浮かべながら、厨房へ続く床を這った。古い油で滑るだけでなく、それは容赦なく体にまとわりついた。厨房の中へとたどり着いた村瀬は、途端に危機から脱したように、息をついた。二階に上がる階段が見える。少しでも上にいた方が有利なはずだ。そう思った村瀬は、辺りを見回した。鈴野だけでなく、誰の姿も見えなかった。立ち上がると、手すりを掴み、無事な方の足を使って二階へ上がった。おおよそ十分以上を費やしてようやく二階へとたどり着いた村瀬は、額の汗を拭った。何か武器になるものが欲しい。二階の窓からは、駐車場がよく見下ろせる。銃があれば、圧倒的に有利だ。階段も一本しかないから、探しに上がってきたとしても、上から蹴落とせる。二階に上がったのは正解だったことを確信して、村瀬は小さく息をついた。
遠くの方からエンジン音が聞こえてきて、村瀬は二階の窓から駐車場を見下ろした。突然、メニュー表に書かれた可愛い字が頭に浮かんだ。村瀬は目を見開いた。『ユニオン』と書かれた、旧型のサンバーバン。それがフィールダーの隣に停まり、中から黒縁眼鏡をかけた若い女の人が降りてくるのが、見えた。村瀬は窓を力任せに開けると、叫んだ。
「来るな!」
伊波はその声に舌打ちした。天井越しに二階を見上げ、鈴野に言った。
「二階に逃げたんだな」
鈴野は伊波に言った。
「見てこいよ」
「勘弁してくれ。飽きたら降りてくるだろ」
伊波はうんざりしたように断ると、窓の外を眺めた。黒縁眼鏡に、揃えられた前髪。高校生のように見える。もっと若い頃は、よく店にいた。この状況を打開する切り札。
「ビビるな……、早く来い」
思わず呟くと、カウンターの反対側で悲鳴のような声が上がった。
「理奈、引き返せ! 見ないでくれ!」
耕助は、二階を見上げながら眼鏡をずりあげている理奈に向かって、叫んだ。声は届かず、喉を伝って血が飛び出しただけだった。香苗の力を借りようと手を引くと、その手はだらりと体の上に垂れた。涙で化粧がほとんど落ちた和佳子は、首を弱々しく横に振った。
「駄目だった……、ごめんなさい」
耕助が香苗の方を向いたとき、理奈の声が店の外から届いた。
「大丈夫ですか?」
耕助は、理奈が問いかけた相手が、二階へ逃げた村瀬だということに気づいた。そして、村瀬が理奈を逃がそうとしたことにも。
村瀬は、照明に顔を照らされながらも、眩しそうに二階を見上げる女の人の名前が理奈だということを、一階から聞こえた耕助の声で知った。そして、もう一度声を張り上げた。
「理奈さん! 来たらだめだ!」
名前を呼ばれてびくりとなった理奈は、唇を強く噛むと、小走りにユニオンのドアを開けた。血まみれの床を見て、頭がまんべんなく砕けた状態の男が仰向けに倒れていることに気づいた。鈴野が立ち上がり、理奈の腕を掴んで強く引いた。反対側にかけたバッグが肩から抜けて、床に転がった。
「やめろ! 理奈!」
耕助が叫んだ。鈴野は自分の腕から自由になろうともがく理奈を見下ろしながら、その必死な様子を笑った。伊波はその様子に、思わず眉をひそめた。
「痛がってんぞ」
鈴野は、その言葉に鋭い目線だけで返事を寄越すと、耕助に向けて言った。
「おい、出てこい!」
返事はなかった。奥から何かを転がすような音が鳴り、鈴野は一瞬そちらへ注意を向けた。理奈を掴んだまま一歩ずつ進むと、鈴野は再度呼び掛けるために息を吸い込んだ。そのとき、耕助が両手を上げて立ち上がった。鈴野は小さくうなずいた。
「おい、物分かりがいいな。あの銃は?」
「捨てた」
「見せろ」
鈴野が呆れたように言うと、同じように呆れた表情で、耕助は答えた。
「捨てたのを、また拾えってか?」
その、聞いたことのないような口調の険しさに、理奈は目を見開いた。
「どうして……?」
鈴野はからかうように言った。今閉じ込められているこの空間に慣れてしまったのか、外から入ってきたばかりの理奈はどこか現実感がなく、その様子を見ていると、余計に同じ土俵に引きずり落としたくなった。理奈は小柄で、抵抗されても少し強く力をかけるだけで、思い通りになった。
「金だよ。みーんな金目当てなんだ。だから、殺し合いになるんだよ」
「そんな……」
理奈は目を伏せた。瞬きをしたとき、涙がレンズに散った。鈴野は万力のような力で腕を掴んだまま、ポニーテールにきつく結ばれた理奈の頭を、ぐしゃぐしゃに撫でた。
「なあ、悲しい話だけど、そんなもんなんだ。あんた、五千万あったら、何がしたい?」
「何も……」
理奈がそう言ったとき、耕助は一歩を踏み出した。体が完全に視界に入り、鈴野は奥の方を覗き込むように、見つめた。
「奥さんは?」
「香苗は死んだよ」
耕助は一歩ずつ、足を進めた。鈴野は四五口径の銃口を持ち上げた。銃口がほとんど触れるぐらいに近づいた時、理奈は言った。
「もうやめて、お父さん」
耕助は言葉がそのまま伝わったように、立ち止まった。そして、カウンターを力いっぱい蹴った。鈴野はその音の大きさに、一瞬銃口がぶれるのを感じた。十数年にわたって培ってきた勘が自然と視線を操り、鈴野が顔を向けた先に銃口があった。村瀬は鈴野の顔に向けて、拳銃の引き金を引いた。大きく右下に動いた銃口が耳を削ぎ落し、鈴野は四五口径の銃口を耕助に向けたまま、思わず引き金を引いた。理奈を押さえつけていた力が無意識に抜け、そのことに気づいた理奈は力いっぱい振りほどくと、床に落ちたバッグに飛びついた。耕助が仰向けに倒れて死んでいるのが見えたが、歯を食いしばって駆け出した。
洋平は、目の前に現れた理奈を見て、和佳子と亮也を庇うように後ずさった。黒縁眼鏡の奥で燃え上がっているような目が、三人を代わる代わる捉えた。理奈は、バッグの中からスマートフォンを取り出すと、ジーンズの尻ポケットに差し込みながら、言った。
「他に出口がないんです。二階に逃げてください」