欠けた満月の日
0.雨の夜
高校三年、冬の終わり。
冷たい雨が降りしきる中、坂木望(のぞみ)は自転車をこいでいた。友人の家を出るときに傘を勧められたが、断った。数か月前まで友人が使っていた赤い傘。持ち主を失った傘が寂しそうに望を見ていた。
薄暗い住宅街を走っていく。前髪からしたたり落ちる水滴を拭う。水しぶきが靴に染みてくる。背負ったバックパックが水分を含んで重くなる。
バックパックには数学の問題集が入っている。大学受験の最中にいる望は、どこに行くにも問題集を携えている。家庭教師の滝川将斗(まさと)が言う。この問題はすぐには解けない、どこにいてもひらめいたら解法を書けるように、いつも携えておけ――
言われなくてもわかってますよ、と数学の問題を思い出す。望は問題を読み上げる、隣で腕を組んだ将斗が聞いている――
大きな交差点にさしかかる。信号が青から黄、赤へと変わっていく。スピードを上げれば渡れそうだったが、ワンボックスカーが水しぶきを上げて前方を通過したのでブレーキを握った。早く帰らないと問題集が湿ってしまう、やっぱり傘を借りるべきだったか――そう考えながらため息をつく。
背後から自転車のブレーキ音が響いて、望はそちらを見た。
黒いウィンドブレーカーを羽織った男が自転車にまたがっている。黒いフードを頭からすっぽりとかぶり、フードの紐から水滴が滴っている。顔はよく見えないが、黒縁眼鏡をかけ、あごには髭がちらばっている。
大型トラックが通過する。水しぶきがかかりそうになって望は眉をしかめる。エンジン音が遠ざかった後、低い声が聞こえた。
「今、何時かな」
望はあたりを見回した。路上には自分とウィンドブレーカーの男しかいない。明滅する信号機が男のこけた頬を照らす。一刻も早くこの場を立ち去らねばと、望の中に潜む警告音が鳴り始める。ハンドルをしっかりと握り、ペダルに足をかける。
「望ちゃん、今何時かな?」
名前を呼ばれて、心臓が跳ね上がった。鼓膜の奥で鼓動がうるさく鳴って、思考が働かない。見知った人物なら確認するべきか、ふりきってこの場から逃げるべきか――耳の奥の警告音を聞きながら水の中をもがくように記憶を探る。
脈動が雨音を打ち消す。男の視線が望の手首のあたりを彷徨う。大学生の兄が買ってくれた腕時計が雨に濡れている。文字盤はぼやけている。
「九時すぎ……だと思います」
声をふり絞った。なぜか男から目が離せない。濡れた路面についているスニーカーから冷たい水がしみ込んでくる。感じたことのない悪寒がつま先からせり上がってくる。
素早く信号を見た。赤。
「本当? ねえ、僕に時計見せてよ」
大きな手のひらが望の手首をつかんだ。よけなければと思ったのに、身動きがとれなかった。
容赦のない強い力が望をしばりつける。握られた手首が大きく脈打つ。血液の流れが遮断され、指の先が体温を失っていく。男の手のひらから乱暴な熱があふれ出している。男の指紋のひとつひとつが望の華奢な手首に刻みつけられる。
声を出そうとするが、喉元を手で押さえられたように苦しく、発声ができない。反対の手はハンドルを握ったまま動いてくれない。
男は手首を握ったまま、自転車から降りようとした。ずぶ濡れになった黒い影が近づいてくる。
危ない、逃げろ――警告音がけたたましく鳴り響く。心音は思考をかきまわして暴れるが、筋肉は意思に逆らって弛緩する。
男の顔が見える。フードの陰に潜む目玉が望を見据えている。じっとりとした汗が手首を湿らせる。
雨のにおいが強く立ちのぼる。足が震えて、力が抜けていく。男の吐く生ぬるい息が濡れた腕にかかる――
突然、光を浴びて目をつむった。耳慣れたエンジン音が静寂を破る。
銀色のロードスターが煌々とヘッドライトを照らして走ってきた。交差点をこえて望がいる歩道の反対車線に停車する。
雨水を洗い流しながら、運転席のサイドガラスが下りる。
車窓から身を乗り出したのは、白いカッターシャツ姿の将斗だった。
「望」
将斗の声が、凍りついていた体を溶かしてゆく。
泣くのをこらえながら男の手をふりほどき、自転車を投げ捨てて道路に飛び出した。
放り出された自転車の倒れる音が聞こえた。男の体も巻き込んだのか、苦痛に叫ぶ声が響きわたった。
交差点の信号がすべて赤に変わる。雨水が信号の色を反射し、アスファルトが赤く染まる。
冷え切った足で水たまりを踏んだ。泥水が顔にはねるのも構わず、望は走った――
***
夜の街を歩きながら望は背伸びをする。朝から着ていたリクルートスーツがきゅうくつで仕方ない。あとひと月で大学四回生の冬が終わる。卒業式を終えたら四月を待たずに就職先で働き始めることになる。入学当初の目標だった教育課程の単位はすべて取り終えているが、就職先には一般商社を選んだ。高校三年のときに熱心に教えてくれた将斗が知ったらきっとがっかりするだろうなと思う。
将斗はもう四年も行方知れずだ。望の大学合格を伝えてすぐ、姿を消した。
兄になぜ突然いなくなったのかと聞いたけれど、わからないと言っていた。嘘をつくのが下手な兄のことだから、本当に知らないのだろうと思った。自分と将斗を結ぶものは、兄の他にはもうない。胸にぽっかりと穴が開いたまま大学に進学した。そこに憧れたキャンパスライフはなかった。
第一志望に合格したのに、何をしていても彼のことを思い出す。彼が通った駅、毎日歩いたというレンガ道、兄と二人で入り浸った学食、人を待って立っていた正門――キャンパスを歩くたび、彼の話を思い出す。けれど彼はいない。彼の痕跡を見つけたいと、理工学部の棟に足を運んだこともある。文系の自分には程遠い世界を目の当たりにして、よけいに虚しくなった。
その大学とももうすぐおさらばだ。就職して新しい世界に飛び込む。希望に満ち溢れた日々の中で今度こそ将斗のことを忘れる――
そう決意して夜空を見上げる。都会の夜は、空を黒く染めてはくれない。くすんだ紺色の空にポツポツと小さな星が見える。木枯らしに吹き飛ばされそうな粒。けばけばしい繁華街のネオンにかき消される情けない存在。まるで自分みたいだ――そんなことを考えながら歩いていた。
その時、目の前を車が横切った。歩道を乗り越えてパーキングに入ろうとしている。望はショートコートの前をかき合わせて体を引く。上を向いて歩いていた自分も悪いが、なんて荒っぽい運転なんだ、と車を睨む。シルバーのロードスター、彼が好きだった車だ――と急に過去の感情に引き戻される。
今忘れると決意したばかりなのに情けない、あんな車、街中にあふれている、と自分に言い聞かせる。国道には大河の流れのように無数の車が走っている。走る車の大半が白、黒、銀色のボディをしている。目立つことを好まない日本人が好きな色。けれど彼の車はいつもどこか光を帯びていて――
その時、ロードスターの運転席が開いた。あんな荒っぽい運転、どんな人間が乗っているのか……
そう考えながら降りてくる人物を凝視した。