短編集57(過去作品)
いとおしいというのとは少し感覚が違っていただろうが、その時、無性に彼女を抱きたいと思った。先輩なので、あまり無理なことはできないはずなのに、彼女の横顔をじっと見ていた。そのことに彼女も気付いたのか、無言で席を立ち、雅夫の手を引っ張るようにして居酒屋を出た。
ネオンサインが煌く中、どこをどう歩いたのか分からないが、気がつけばホテル街へと抜けていた。
雅夫は初めてではなかった。
最初に女性を抱いた時は、今から思い出すとハッキリとした記憶が残っていない。あくまでも自然で、無言の元にすべてが終わったような感覚だった。何事も滞りなくスムーズだと、却って記憶に残りにくく、時間も曖昧だったように感じるというのは、このことだと、その時に感じたのを思い出したのだった。
先輩とも、会話はほとんどなかった。だが、先輩の行動の一つ一つに何かを確かめているような行為が感じられたのは気のせいであろうか。
いや、明らかに何かを確認している。それが雅夫のことに関してなのか、自分のことに関してなのか最初は分からなかった。だが、雅夫のことに関して確認していることを自分に置き換えてみているように思えてならない雰囲気は、雅夫に対して女性っぽさを感じている証拠ではないかと思えてくると、雅夫の中にどこか寂しさを感じさせるものが残ってしまった。
この感覚は初めてではない。
――そうだ、初めて抱いた女性にも同じことを感じたな――
まったく同じものではなかった。同じものであったら、きっと印象に残ることは一切なかったはずである。だが、実際に事を終えて放心状態の中で感じたことは、
――やっぱり俺は男なんだ――
という思いと、彼女が男である自分に満足してくれたことも嬉しさが心地よい気だるさの中で身体全体で感じていることだと信じて疑わなかった。この感覚は、最初に経験した女性にはなかったものである。
――相手が違うからだろうか――
それもあるだろう。自分が成長したというのもある。だが、今回は最初から自分の中に女性っぽさがあることを気にしているという点で違いがあった。女性を抱く中で、自分がどれほどの男性なのかということを確かめたい気持ちが強かったのも事実である。そういう意味では当初の目的を希望通りの形で実現できたことは喜ばしいことであった。
しかし、彼女とはその一回きりだった。
雅夫が彼女を気にすることはなかったし、彼女も雅夫とそんなことがあったなど、まったく表に出さなかった。今までどおり、普段と変わらない生活、そして変わらない姿勢、熱い視線を感じることもなく、誰も二人のことを知っている人はいないだろうと思っていた。
だが、明らかに彼女との一夜の次の日から咲子の視線は違っていた。
熱い視線がさらに強くなり、どこか戒めにも似た視線を感じていた。
――どうしてそんな目で見るんだ――
軽蔑の眼差しにも似ていた。だが、決して蔑んでいるわけではない。かといって、忠告に近いわけでもない。どこか寂しそうな視線を感じては、それまでなかったはずの罪悪感が芽生えてくるのを徐々にであるが感じていた。
――罪悪感など持つ必要などあるはずないのに――
付き合っている人がいて、その人を裏切ったというのであれば罪悪感もあるだろうが、そんな人がいるはずもない。
彼女の中に雅夫に対して感じている思いが強いことで、裏切りのような錯覚が彼女に芽生えたとも考えられなくもないが、それはあまりにも雅夫の自己中心的な考えであった。
雅夫にとって咲子は、咲子にとっての雅夫への考え方と隔たりがあるのは明らかであるが、それがどのようなものかは、まだ自分の身体に昨日の彼女の温もりが残っている状態での雅夫には分からなかった。
「私、ある人から告白されているの」
咲子から意外な言葉を聞かされた。もっとも、咲子だって十分な魅力を持った女性なので、男性から告白されたとしても不思議ではなかった。意外だと思ったのは、そのことを雅夫に告げたことだった。
――なぜ、俺に――
という思いが強く、強い性格の持ち主であるため、自分のことはよほどでもないと人に話すことはしないはずだということを考えると、彼女にとってそれは、「よほどのこと」だったに違いない。
相手は弘樹という男性で、あまり雅夫が意識したことのない男だった。しかし、時々痛いほどの視線を感じることがあり、その視線が挑戦的であるのを感じていた。
――どうしてそんな目で見るんだ――
と思っていたが、その弘樹が咲子に興味があったなんて意外だった。
「でも、彼、私を見ているようには思えないの。好きな人を相手に告白しているって雰囲気が伝わってこないの。まるで私の後ろに写っている誰か違う人を見つめているみたいなのよ」
雅夫には二つ考えられた。
男として自分を意識している弘樹と、女性として意識している弘樹である。自分を見つめている目は完全に男性に対しての挑戦的な目にしか見えない。弘樹自身はあまりもてる方ではなく、引っ込み思案な性格も災いしているのだろうが、どうも小さい頃から太っていることにトラウマを感じているようだった。
太っているといっても、全体的にではなく、お腹まわりが全体的なバランスを崩している。
「あれなら全体的に太って見える方が、まだましかも知れないな。トラウマがあったとしても、仕方のないことかも知れない」
というのが、おおかたのまわりの意見でもあった。
雅夫もそれは感じていた。そのせいか、どこか女性っぽい行動に見えることがあった。精神的には完全に男性なのに、行動の一部が完全に女性である。これはきっと自分の中に収められたトラウマが起こす行動に違いなかった。
「雅夫さんも、弘樹さんに似たところがあるの」
咲子がポツリと呟いた。
その言葉を予期していなかったわけではない。予期していなかったわけではないから、却ってショックだった。
――言われたくない。想像が外れることを一途に望んでいたこと――
だったからである。
似ているとしても、完全に同じ人間ではない。違うところもたくさんあって、それを必死で探している自分がいる。同じように咲子も雅夫を見ながら、弘樹との違いを見つめている。
――咲子を取られたくない――
この思いが次第に強くなる。まずは弘樹よりも強く咲子を想うことが大切だった。
その自信はあった。今までの漠然とした咲子への想いが、弘樹という男性の出現で形となって現れてきそうなのである。
咲子がいない間一人で鏡を見ている。女性っぽいところのある自分がそこにはなかった。封印しているつもりでもない。隠そうとする意識はすでになかった。
鏡に写った自分の姿が、咲子の心を捉えているのは分かっていた。だが、どうしても消すことのできないイメージが弘樹とダブっている自分である。女性っぽいところを封印してしまうことをやめた自分がそこにいる。
――何事も意識することなく自然な自分を受け入れる――
自分の中にもう一人の存在を感じていた。それはきっと誰にでもあるものだと思って疑わない気持ちが生まれてきたのは、まわりに捉われない自然な自分を意識するようになったからに違いない。
作品名:短編集57(過去作品) 作家名:森本晃次