久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~下
今度はリーウが訊いた。
「まあ、実際に着てみれば分かりますよ」
女性は意味ありげに片目をつぶって見せた。
コルセットで苦しめるというのは、どうやら着付け係の趣味のようなものらしかった。だが、ただそれだけの理由でないことは、リーウにもすぐ理解できたようだ。
つまり、こういうことだったのだ。
体型を維持すること。力を使っても構わないが、極力自制心によって己を律するというのが主目的ならしい。そしてもし、暴飲暴食でお腹が出すぎたりしたら、ドレスがはじけ飛んでしまうのだそうだ。
言い方は大層だが、要するに留め具やボタンが外れてしまうという意味だった。お腹がきつくなるまで食べ過ぎるな――まあ、これが淑女のたしなみと言えばそうなのかも知れないが、必ずしも女に限ったことではないだろう。
「自分でやるかコルセットかは選べますよ」
「い……いいです。もう、制服でいいです」
リーウが弱音を吐く。
「それは認められません」
「どうしてもですか?」
「どうしてもです!」
着付け係は、きっぱりと言った。
「私、参加しなくていい?」
涙目になって、リーウが暖野に助けを求める。
「それじゃ、私と会えなくなるじゃない」
暖野は言う。「それに、一口も美味しいもの食べられなくなるわよ」
「嫌だ。絶対に食べたい」
「あのね」
「嘘よ、嘘。嘘じゃないけど、ノンノと会えないのは、もっと嫌」
「良かった。同じくらいとか言ったら、絶交するところだった」
「見損なわないでよ」
リーウが怒って見せる。
そして、いよいよ次は自分の番かと思いきや、暖野は一番最後になると言われてしまった。なぜと問う彼女に着付け係は答えた。主役は一番最後と決まっているのだと。
そこへ、キナタが扉を開けて顔を覗かせる。手招きされるままにそちらへ向かう。小声で調子はどうかと聞いてくるのに、暖野は大丈夫だと答えた。
そこでやっと笑顔になってキナタは、暖野を待っている人がいると伝えた。
「行ってらっしゃいな」
着付け係がリーウの髪を梳かしながら言う。「7時間目終了の鐘が鳴ってからで間に合います」
暖野は軽く頭を下げて廊下に出た。扉を閉め際、リーウの抗議の声が聞こえてきて、思わず微笑んでしまう。
待っている相手。それはフーマしかいないだろう。アルティアは舞踏会の準備で忙しいはずだ。その他に暖野をわざわざ待っているという人物に心当たりはない。
示された通りに裏口から中庭へ出ると、手持ち無沙汰にベンチに掛けているフーマが目に止まった。
急ぐでもなく、暖野は彼に近づく。
「フーマもなのね?」
暖野は言う。
「ああ。どうやら俺達は今のところ自由らしい」
「でも、良かった」
「何がだ?」
「あんなもの着て、歩き回れないから」
「大変そうだな」
「まあね」
「腹は減っていないか?」
「あんまり」
緊張しているからなのか、空腹は感じられなかった。
「時間はまだある。少しは口にしておいた方がいいだろう」
二人は食堂へと歩き出す。空腹でないと言っても、暖野は今日は起きてから何も食べていない。
着付けの終わった女生徒のグループとすれ違う。楽しそうでもあるが、履き慣れない靴のせいか歩き辛そうにしている生徒もいる。一人などは靴を脱いで裸足になっていた。確かに、その方がはるかに歩き易いだろう。
食堂は午後から臨時休業になっていた。最後にここの名物のプレッツェル・サンドを食べようかと考えていた暖野はがっかりしてしまった。売店で手に入るおすすめを聞こうにも、フーマが相手では無理だ。小ぶりなサンドイッチと飲み物だけを買う。支払いは、フーマがしてくれた。
「あまり遠くへは行けないが、どうする?」
フーマが訊く。彼は飲み物だけを手にしている。
「教室」
そこまで言って、暖野は付け加えた。「それと、図書館」
本来なら、この時間は授業中のはずだった。世界こそ違うものの、ここにも確かに変わらぬ日常があった。そして、暖野もその中にいたはずだった。
扉を開けて教室に入る。当然のことながら、誰もいない。消し忘れられた黒板の文字。あるいは意図的に残された文字。
『明日は全休』そして『明後日は臨時休校』
そこに書かれた『明日』は、もう今日になってしまっている。そして『明後日』という名の明日は――
こんな時、黒板の隅っこの方に相合傘でも書くものなのだろうか――
ふと、そんなことが脳裏をよぎって、暖野は寂しく微笑んだ。
「どうした?」
そんな様子を見て、フーマが訊ねる。
「なんでもない」
そう言って、暖野は自分の席に着く。
「ねえ」
暖野は訊く。「フーマは、ここか元の世界かどっちが好き?」
「俺は、ここの方がいい」
「私がいなくなっても?」
「ああ」
「向こうが私と同じ世界でも?」
「同じとは限らない」
「でも、繋がってるでしょ?」
「確かにな。だが、あの世界は冷たい」
「冷たい、か……」
机の上に置いた手に、フーマが手を重ねてくる。
「向こうには、本物の温もりはない」
暖野は伏せていた手のひらを上に向け、フーマの手を握る。フーマは前の席の椅子を引き、そこに腰を下ろした。
「もっと勉強したかった」
「ああ。だが、お前はもう色々と知っているはずだ」
「何を?」
「最初にここに来た時のことを覚えているか?」
「うん……」
そう、向こうの世界から来た最初の日、自分でも驚くようなやりとりを教師と交わした。
「暖野は、お前が思う以上のことを既に知っている。お前がここへ来たのは、おそらくそれを思い出させるためだったのかも知れない」
「でも、もしそうだったとしても、まだちゃんと思い出せてないわ」
「その必要はないのかもな」
「どうして? 中途半端に呼び出しておいて、中途半端に放り出すなんて無責任なんじゃない?」
「そうかな? もしお前がここへ来なかったら、思い出そうともしなかっただろう。でも、お前はもう、そのきっかけを得た」
「そうなのかな?」
「俺は、そう思う」
また、しばしの沈黙。その間、暖野は彼の手を力を込めるでもなく握り続けた。
「図書館」
暖野は言う。
「ここは、もういいのか?」
頷いて、暖野は立ち上がる。フーマの手を離し、ゆっくりと教室内を巡る。そして黒板に向かい、チョークを手に取った。
――ありがとう――
左の隅に、そう小さく書く。
最後に室内全体を見渡して、呟いた。
「ありがとう」
フーマの手を取り、教室を後にする。休校のため、このエリアには人影はない。無人の廊下を二人は進んでゆく。階段を昇ると、左へ。その突き当りが図書館だ。
こんな日に、わざわざ本を読もうと思う者などいないだろう。案の定、図書館にも人はいなかった。
ここは、フーマと暖野が初めて言葉を交わした場所。そして――
扉。
あれ以来、暖野はここを訪れていない。一人で来るのが何となく恐ろしかったし、それよりも他のことに忙しかった。
今、二人の目の前には扉があった。例の隠し部屋への扉。
いまさら逃げていても仕方がない。見るべきものは見ておくべきだと、暖野は思った。時間にはまだ余裕がある。
「フーマ」
暖野は彼の顔を見る。そして、握る手に力を込める。
「いいんだな?」
作品名:久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~下 作家名:泉絵師 遙夏