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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~下

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 無人の廊下を進み、階段を降りる。大浴場は開放されていたが、そこにも誰の姿もなかった。
 かかり湯ををし、昨夜と同じように湯に浸る。
 眠気覚ましというよりは、却って眠気を誘うような心地よさに、暖野はうっとりとする。思わず深い吐息が漏れ、咽喉元まで沈み込んだ。
のぼせるほど長湯するつもりもなかったため、軽く髪と身体を流して早々に浴場を後にする。どうも気怠さが抜けきらない暖野は、売店のセルフ・コーナーで牛乳を買って外へ出た。早朝の澄んだ空気は湯上りの身体を適度に冷やし、身を引き締めてくれる。山慣れした暖野には、この方が目覚ましには効果的だった。
 遅くまでというよりも未明まで飲んだり食べたりしていたせいで空腹は感じない。暖野は瓶入りの牛乳をいつものようには一気に呷ることもなく、時間をかけて飲んだ。
 男子寮の方からの始発ビークルが到着するのを、少しばかりの期待を抱きつつ眺める。だがそれは誰をも降ろすこともなく走り去った。
 小鳥が木の枝で囀っている。向こうに戻れば、もうそれも聞くことはできなくなる。
 しばらくぼんやりしてから部屋へ帰ったのだが、まだ誰も起きていなかった。まあ、これが普通なのだろうと暖野は思う。昨夜少しずつみんなから分けてもらったマナが効き過ぎたのだろうか。その分皆が起きてこないのなら、起こすのも悪い。
 元々二人部屋に五人がいるせいか、空気がこもっている感じがして窓を少し開けた。外の冷気が入り込んでくる。風があるでもなく、ゆっくりと見えない霧のように。
 まだ幾分髪が湿っているようだったが、暖野はベッドに潜り込んだ。起きていても、することがない。
 リーウの寝顔を見る。まるで子供のようだと、暖野は思った。
 鼻の頭を指先で突いても表情一つ変えない。いたずら心で鼻をつまんでやると、顔を顰めて叩かれてしまった。そして向こうを向いてまた寝息を立てる。
 リーウやアルティアはまだいい。暖野を見守るためにいるキナタまでが眠りこけているのは如何なものかと、暖野は呆れつつ彼女の寝姿を見やる。生徒ではないものの、キナタはまだ若そうに見えた。ひょっとしたらここの卒業生で、皆と同じように楽しみたかっただけではないのかと思ってみたりもする。
 そんなことを考えているうちに、暖野もいつしか眠ってしまっていた。
「暖野?」
 肩を叩かれる。
 あ――
「暖野ってば」
 ん……
 暖野は目を開けた。
 目に入ったのは白い何か、そしてぼやけた文字。
「大丈夫?」
 覗き込んでくる顔。
 宏…美……?
「あれ? ここは……」
 暖野は頭を上げる。開いたままのノートに突っ伏して眠り込んでいたようだ。
「暖野ったら、ホントに大丈夫?」
「え? ああ……うん」
 周囲を見回す。
 教室だった。それも、統合科学院でない、暖野自身の世界のもの。もう遠い昔のようにさえ思える、自分の属する世界のものだった。
「顔色悪いよ。やっぱり実行委員、外してもらう? あれからずっと調子悪そうだし」
 宏美が訊く。
「……」
 どう返答していいものやら、暖野は迷う。
 確か、今日は統合科学院にいられる最終日で、夕刻には舞踏会があったはず。それに、まだ誰にもお別れを言っていない。
 こんなのは嫌だ――!
 だが、自分の世界に戻れたことの安堵の気持ちがなかったと言えば嘘になる。
「宏美?」
「うん?」
「宏美よね?」
「もう、寝惚けてるんじゃないわよ。私は私に決まってるじゃない」
「そうよね……」
 でも、どうしてこのタイミングで戻ってしまったんだろうと、暖野は訝る。沙里葉にいたわけでもバスに乗ったわけでもない。そもそも統合科学院から自分の世界に直接戻れたことなど一度もなかったはずだ。
「保健室、行く?」
「ううん、いい」
 暖野は机の上を片付けた。
 夢にしては、随分と現実感のあるものだった。
 夢――?
 本当に、あれは夢だったのだろうか――?
『暖野』
 声が聞こえる。宏美のものではない。
『暖野』
「誰?」
「え?」
 暖野の問いに、宏美が驚いて声を上げた。
「え?」
 暖野も問い返す。
「今、誰って言わなかった?」
「そんなこと、言ったっけ?」
 暖野は言う。
『暖野』
 また聞こえる。
 周囲を見回しても、誰もこちらに注意を払っている者はいない。
『俺だ、聞こえるか?』
「フーマ? 嘘?」
「ちょっと、暖野?」
 宏美が心配げに暖野を見る。
『何も言うな。俺は今、お前の心に直接語りかけている』
 それは、確かに聞き慣れたフーマの声だった。
『何も言うなって?』
 暖野も思いを返す。
『いいか。そこはお前の世界ではない』
『ちょっと待ってよ。私、何が何だか分からない』
――くそ! お前がいながらどうしてこうなった!!
 意識の向こうから、フーマの苛立ちが伝わってくる。
『ごめんなさい!』
 これは――
 キナタの声だった。
『ちょっと! 何がどうなってるの!?』
『いいか、良く聞け』
 フーマが言う『その世界は、お前の戻るべき世界ではない。ただの幻だ』
『幻って?』
 言いながら、暖野は机の上を手のひらでなぞる。
「暖野、どうしたのよ?」
 宏美が訊いてくる。
『そこは、ただの幻想世界だ。マナの異常効果が生み出した、本来はあり得ない世界だ』
 暖野は目の前の宏美を見る。それは、紛れもなく宏美だった。暖野に手を差し出してくる。
「保健室、行こうよ」
 暖野はその手を握ろうとする。
『やめろ!』
 その声に、慌てて手を引っ込める。
「暖野?」
 宏美が更に手を伸ばす。
『その場から離れろ!』
『だって――』
『何も考えるな、走れ!』
 訳が分からないまま、暖野は立ち上がった。そして、そのまま出口の方へ駆け出す。
「暖野!」
 背後から宏美が呼ぶ。
『走れ!』
 もう、何なのよ――!
 フーマは冗談を言わない。それに、これまでにない切羽詰まったような口調に、暖野はいわれのない恐怖を感じた。その言葉を疑う理由は全くない。ただ、せっかく戻れたはずの現実を棄てるのが恐ろしかった。
「待って!」
 扉のところまで来た時に、宏美に捕まってしまった。
『振りほどけ! 構うな!』
 だって――
「また、行っちゃうの?」
 その言葉で、暖野は我に返った。
 これは、宏美じゃない。宏美は、こんな言い方はしない。本物の宏美は、暖野がいなくなったことすら知らないはずなのだから。
「あんた、宏美なの?」
 暖野は、宏美に真正面から向かい合った。
「当たり前でしょ。暖野ったら、何言ってんのよ」
「私の友だちのふりするなんて、許さない」
 宏美に背を向ける。
 暖野はそのまま振り返ることなく、そのまま教室を出た。