久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~下
14. 喪われた時の中で
「私の世界だわ」
暖野は言った。
「それは、お前の時代のか? それとも――」
「私の時代の、はず」
窓の外。
植込みの木の形、その向こうにある体育館。
見覚えがある。
ここは、かつて暖野が通っていた中学校だった。保健室にはあまり来た覚えはないが、ここは間違いなくよく知っている中学校だった。
嫌……
急に頭痛がして、暖野は頭を抱え込んで蹲った。
「大丈夫か! 暖野!」
「嫌……。嫌……」
急激なフラッシュバックに襲われる。
明滅する映像が、目に見えているものと重なる。
「おい、どうした! しっかりしろ!」
「お願い! 許して!」
暖野は、掴まれた腕を振り払う。
「何があったんだ!? おい!」
「嫌! 許して!」
自分でも何を言っているのか、暖野には分からなかった。
ただ、「許して!」という思いの波が押し寄せてくる。
それだけ。
ただ、それだけ。
許して!
ああ……
助けて……
また、意識が薄れてゆく。
「暖野!」
頽(くずお)れた暖野の体を支えて、フーマが叫ぶ。
「ああ……」
「しっかりするんだ、暖野!」
その瞼が震え、微かに開いたのを見て、フーマが呼びかける。
「あなた……」
暖野が、か細い声で言う。
「ああ」
「あなた、……誰?」
「おい」
フーマが、暖野の瞳を真っ直ぐに見つめる。
暖野の顔は蒼白で、まるで別人のようになっていた。
「暖野」
「どうして、私の名前を知ってるの?」
「お前、正気か?」
暖野は笑う。
能面のような表情で。
「あ、そうか」
声のない笑い。「あなたも、私が欲しいのね」
暖野は立ち上がる。
虚ろな目。それは、目の前にいるフーマをも捉えてはいない。
「いいわよ。こんな私でよかったら」
「おい、何をする」
「だって、そうでしょ? 最初から、それが目的なんでしょ?」
感情のない、口元だけの笑み。
涙をも失った、乾き果てた眼。
「やめろ」
フーマが、その肩を激しく揺さぶる。
「この身体だけでも、欲しいと言ってくれるなら」
暖野は、ブラウスのボタンに手を掛ける。掛け違えられたボタン、その一つに。「その代わり……」
唇だけが、その言葉のかたちを伝える。たった4文字の。
音を失った声で伝えられる、最後の希望。
『コ・ロ・シ・テ』
「おい! 暖野!」
フーマが暖野の身体を抱きしめる。
「お前! どうした!」
フーマが忌々し気に部屋の雰囲気を窺う。「くそっ! ここは一体!」
腕の中で、暖野の体からあるかなしかの力が抜けてゆく。
フーマはただ、それを抱き留めていることしか出来なかった。
「……ん」
どれだけ経っただろう。
暖野の体にわずかな生気が戻ってきた。
「お前は……」
「……フーマ」
誰なのかと、フーマが問おうとした時、暖野はその名を呼んだ。
「おい、お前なのか? 確かに、暖野なんだな!?」
「何言ってるの?」
「暖野……」
「フーマ、私一体……」
「気を失っていた」
「そう……」
「お前、本当に大丈夫なのか」
「うん……」
立ち上がろうとする。だが、まだ体が思うように動かなかった。
「じっとしていろ」
「うん」
「お前、気を失っている間に何か見たか?」
暖野は首を振った。
「そうか」
「でも、何だかすごく怖くて……」
「ああ。でももう大丈夫だ」
「うん」
暖野は言う。「でも、どうしてここに来たのかしら。――フーマが、ここに連れて来たの? それとも私の――」
「違う」
「だったら――」
「ただ、言わせてくれ」
「うん」
「お前は、俺が守る。……守らせてくれ」
「もう、何があったのよ」
暖野は照れくさくなって言った。「でも、ありがとう」
二人はそのまましばらく動かなかった。
「フーマ」
その肩に顎を載せたまま、暖野は言った。「私ね、時々自分が分からなくなるの」
「ああ」
「私は、私でいいのよね」
「ああ」
「いつもみたいに、当たり前だって言ってくれないの?」
「お前は、暖野だ」
「うん」
「誰が否定しようが、お前がお前である限り、お前は暖野だ」
「うん」
「たとえ俺が否定しようと、お前がそれを信じている限り」
「フーマは、私が私でいることを、否定する?」
「しない」
「もし、私が私自身を信じられなくなったら?」
「正気に戻す」
「うん」
暖野は、再びその身を預けた。「私、信じる」
「ああ」
「だから、守ってね」
「当たり前だ」
全身に拡がる安堵感。
「ここね、私が昔、通ってた中学校」
「ああ」
「高校でもそうだけど、特に変わったこともなくて、ただ何となく過ごして」
「ああ」
「それでも、色々楽しいことして、ちょっと辛かったり……」
「ああ」
「それから……」
暖野は寂しく笑う。「ほんの少し、誰かに憧れたり」
「楽しかったか?」
「今、思い出したらね。楽しかったと思う」
「そうか」
「でも、どうして今になってここに来たのかな?」
「意味を探るのは、よした方がいい」
「そうよね……」
暖野は言う。「ね。一緒に見て回らない?」
「ここをか?」
「そう。私が昔いた場所。興味あるでしょ?」
「ああ」
二人は保健室を出た。
時間は、いつなのか分からない。休日なのか、廊下にも誰もいなかった。
保健室の隣が準備室。何の準備室だったのかは記憶にない。
「ここがね、職員室」
暖野は言って、扉を開ける。
職員室にも誰もいなかった。壁に掛かった丸時計は、午後2時を指している。
「いつもは、誰かいるんだけどね」
実際に誰かいたらどうしようなどという懸念は、不思議となかった。
視聴覚室、家庭科室、そして昼食時には男子の群れでパンを買うにも割り込めなかった購買部。暖野は、校舎内を案内して回る。
そして、新校舎の一階。奥から二番目の教室へフーマを導き入れた。
「ここ、私が三年生の時の教室」
そう言って、並んだ机の間を進む。
そして、窓際の席の一つに腰を下ろした。
「私の席」
フーマは、特に何も語らない。
他の何を見るでもなく、暖野だけを見ている。
「あんまり勉強してなかったな。隠れて本読んだり、落書きしたり」
暖野は笑う。
「変でしょ? 私って、こんなんだったんだよ」
「変、か……」
「だって、そうじゃない。高校でも、あんまり成績よくないし。それなのに、科学院じゃ優等生扱いされちゃうし」
「まあ、この世界ではな。そうだろうな」
「私ね、何やっても普通だった。普通に学校行って、普通に勉強して、友達と遊んで。退屈だなって思ったこともあるけど」
暖野は一旦言葉を切る。「でもね。その普通がすごく大事なことだったんだって、違う世界に来て初めて気づいた」
「ああ。それは、俺もだ」
「そうよね。ここに座って毎日退屈な授業受けて、休み時間にどうでもいい話をして。家に帰ったらお母さんがいて、馬鹿な弟にからかわれて」
「お前は、ここで幸せだったんだな」
「そうね。今はそう思う。その時は気づかなかったけどね」
「今は、どうだ?」
「幸せ」
暖野は机に視線を落とし、そしてフーマを見て微笑む。
「そうか」
「フーマが、いてくれる」
「ああ」
作品名:久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~下 作家名:泉絵師 遙夏