久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~下
15. 童心
島の小さな砂浜にボートを着けるや否や、トイが駆け出してゆく。
「ちょっと! 走ったら危ないわよ!」
「お姉ちゃんもー!」
暖野の制止も聞かず、トイは樹々の間に入って行ってしまった。
マルカはボートを砂浜に引き上げようとしている。さすがにこれは一人に任せるのも悪いので、暖野も手伝った。
二人が何とかボートを浜に揚げてその場にへたり込んでいる所へ、トイが戻って来る。
「お姉ちゃん、探検しようよ」
「ごめん。ちょっと疲れた」
「おじさんが漕いでたのに?」
「ボートを揚げないと、流されちゃいけないでしょ?」
「ああ、そうだね」
「トイも少しは手伝ってください」
マルカも言う。「それに、あまり一人でどこかへ行くのはやめて下さい」
「どうして?」
「ノンノが心配します。私もですが」
「しんぱい?」
「……」
マルカは説明できずに黙ってしまう。
「あのね」
暖野は考えながら言った。「ここが、痛くなるの」
胸を押さえる。それは、寂しさについて説明したときの仕草だった。「トイがどこかで痛くなってないかって」
「僕が痛いと、お姉ちゃんも痛いの?」
「うん」
「どうして? 痛いのは僕なのに?」
「うー……ん」
暖野はしばし考え、そして言葉を選びながらゆっくりと言う。「私が船に酔った時、トイは一緒にいてくれたよね?」
「うん」
「どうして、そうしたの?」
「だって、お姉ちゃんが」
「うん、お姉ちゃんが?」
「しんどくなったりするのが嫌だったから」
「そうよね。私もそう。トイが痛くなったりしたら嫌なの」
「うん」
「だから、知らない所で痛くなったらどうしようって、心配になるの」
「分かった」
トイが言った。
「でもね、探検じゃなくても遊びはあるのよ」
「そうなの? じゃあ、やろうよ」
請われて、暖野は静かな波の寄せる水際まで行く。
砂を適当に盛り上げ、それらしく城を作って見せる。
波が来るたびに少しずつ崩れて行く城、それが崩れないように堀を巡らしたり工夫するということを繰り返す。
何かを作ることは人に、特に子どもにこの上ない喜びをもたらす。そしてそれが壊れるのをいかに防ぐかという試行錯誤をトイに教えているということに、暖野は気づいてはいない。彼女自身も童心に帰り、ただ砂遊びを楽しんでいたのだから。
決して広い範囲ではなかったが、いつしか城の他に道や家などもある一つの世界が出来上がっていた。
湖とはいえ広さが相当にあるため、満ち引きもあるようだった。二人の作った小さな世界は徐々に蝕まれ、やがては水に没してしまった。
「消えちゃったね」
トイが残念そうに言う。
「そうね。でも、また新しく作ればいいのよ」
そう言って、暖野は頭上を光が通り過ぎるのを感じた。
夕暮れだった。灯台の明かりが点ったのだ。
「戻ろうか」
暖野は言った。
マルカの漕ぐボートで、三人は船に戻った。泊まれる場所があるのに、わざわざ野宿する必要もない。それに、高みにある灯台まで行くには、森は暗すぎた。
船に戻ると、空腹を訴えるトイに暖野は休む間もなく夕食の準備を始めなければならなかった。
何度もやっていると、料理の腕よりも手抜きの方が上達する。ハム入りスクランブルエッグ、スープ、サラダの夕食を適当に作り、三人で食卓を囲んだ。
暖野は少しばかりマルカに不満を覚え始めている。いくら子どもが苦手だからといって、全てを自分に任せすぎではないのか、と。
晩ご飯の食材探しくらい、手伝ってくれてもいいのに――
適当にトイの相手をしてくれるのは助かるが、考えるのも実行するのもほとんど暖野だった。もっともボート漕ぎなど力仕事はやってくれるが、それが必要な状況はあまりない。
部屋に戻っても、トイは暖野と一緒に寝たがる。
散々遊ばせたらすぐに寝入ってくれるのだけは有難いが、それまでは一人の時間を持つことも難しい。風呂でさえ一緒に入らなければならず、ゆっくりと疲れを癒すことも叶わなかった。
トイが完全に寝入ってから、暖野は大きく息をついた。
風呂上がりの牛乳も、しばらく飲んでいない。寒くはないが、今は冷たいものを飲む気にはなれなかった。
簡易キッチンでコーヒーを淹れる。マルカに教えてもらったので、自分でも淹れられるようになっていた。
カップをテーブルに置き、ソファに身を沈め、テーブルのスタンドだけを点けて本を開く。この時間くらいしか、落ち着いて読書も出来ない。
だが、暖野はそれを決して嫌だとは思わなかった。
トイと遊ぶのは楽しい。童心に帰って忍者ごっこや砂遊びなどをしていると、時間が過ぎるのも嫌なことも忘れられる。
ただ、それは忘れているだけで、一人になるとその分重みを増してくるようにも思われた。
ページを繰る手が停まる。
目は文字を追っているが、内容が一向に頭に入ってこない。
本を閉じ、コーヒーを一口飲む。
向こうでは、うまくいっているだろうか――
あの緊急警報の理由のことだ。
実際、ここであれこれ思い悩んでも仕方のないことではある。こちらで数日を過ごしても学院では数時間しか経っていなかったり、またその逆のこともあるのだから。それは暖野が向こうに戻った時が、ことが解明された後か前かというだけなのだ。
ベッドの方で物音がした。
トイが起きたのかと思い暖野は様子を見たが、彼は布団を蹴って眠っていた。布団をかけ直してやり、またソファに戻る。
明日は何をしよう――
トイが探検をしたいと言うなら、それもいい。登山と言うほどではないが、久しぶりに自然の中を歩いてみたい気もする。その場合、弁当の準備も必要だろう。もっとも探検でなくとも島に行くのなら弁当は持って行かなければならない。船との間を何往復もさせるのは、マルカに悪い気がする。
「お弁当か……」
明日の朝は、二食用意しないといけないのか、と暖野は思った。
まあ、これに関してはトイに任せるしかない。ただ、島へ行くのは確実だろうから、弁当をどうするかが重要な問題だ。
暖野はリュックの中からノートをペンを取り出す。
空白のページを探して繰っていると、この世界に来た時から書いていた地図が目に入った。そこには何日目などと記してあるが、途中から日付の記述はない。行ったり来たりで、もう何日目かなどおおよそでしか分からなくなっていたからだ。それに、トイに出会ってからは地図すら書き加えてはいなかった。
暖野は、港町を発ってから島までのルートを適当に記した。そして別の空白のページに“お弁当”と書く。
おにぎり、サンドイッチ、あと何があったっけ――
「梅干しって、あるのかな……」
ペンの尻を唇に当てながら考える。
だが、暖野は根本的なことを忘れている。暖野は具を考えるより以前に、おにぎりを握ったことがないということを。
ま、いいか。そぼろ弁当かサンドイッチ。面倒なら朝の残り物で適当に――
とりあえずは明日の予定は明日回し。そう考えると気が楽になった。
何だか変に目が冴えてしまった。暖野はもう一杯コーヒーを飲むことにした。
翌朝、暖野はトイに叩き起こされた。言い方は悪いが、暖野にとってはそうとしか言いようのない起こされ方だった。
作品名:久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~下 作家名:泉絵師 遙夏