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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~下

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12. 痛み


「ああノンノ」
 背後で声がした。
 暖野は失敗作のコーヒーを流しに捨てているところだった。
「マルカ、おはよう」
「おはようございます。すっかり寝過ごしてしまって済みません」
「いいのよ。たまにはゆっくりして」
「ですが、ノンノは昨日も――」
「気にしないで。私、こういうの結構好きみたい」
「そうなんですか」
 マルカが、暖野の手元を見る。「それは、何をしているのですか?」
「え、これ? いや、何でもないのよ」
「コーヒー、私が淹れましょうか?」
 マルカが言う。
 思いっ切りバレてるし――
 暖野は苦笑した。
「うん。そうね――」
 視線が宙を泳ぐ。「私、紅茶がいいかな」
「分かりました。それで、朝食は済ませたのですか?」
「ええ、まあ……」
「じゃあ、良かったです」
 それが、実はあんまり良くなかったりして――
「マルカは? ごはんどうする?」
「いえ、今はいいです」
 そう言ってマルカは、トイの方を見た。「彼が起きてから、軽く頂きます」
「そうなの。ビスケットか何か、持ってきてあげようか」
「どうぞ、気を遣わないでください。まだ顔色も良くないのに、あまり動き回るのも良くありませんし」
「ずっと薄暗い所にいたら、それこそ病気になるわ」
「それも、そうですね」
「じゃあ、私は外にいるわ。トイも寝てるしね」
「ええ。ただ、上着は着ていた方がいいです」
「そうね。ありがとう」
 確かに、あまり風は吹き込んでは来ないとは言え、長時間外にいると体が冷えてしまう。
 デッキには陽が当たっているため、まだ寒くはない。暖野は背もたれに上着をかけて椅子に腰を下ろす。
 しばらくして、マルカがお茶を持って来てくれる。
「トイはまだ寝てる?」
 暖野は訊いた。
「ええ。ぐっすりと」
「そう」
 そう言って、暖野はドアの方を振り返った。そこにトイの姿がないのを確認する。「ドア、閉めてくれる?」
「あ、はい」
 マルカが言われた通りにする。
「ねえ、マルカ。トイのこと、どう思う?」
 聞かれているかも知れない万一の可能性もあるため、暖野はマルカにだけ聞こえる程度の声で言った。
「そうですね……」
 マルカが考える。「悪い子ではないですね」
「それだけ?」
「それだけ、と言いますと?」
「あの子に何か感じない?」
「少し変わっている、と言いますか……」
「そうね。正確に言えば、何か大事なことを忘れているっていうか」
「そうでしょうか?」
「マルカは気づかないの?」
「ええ、すみません」
「べつに謝らなくていいけど」
 暖野は少し間を置いて言う。「ねえ、マルカ。私が初めて沙里葉に来た時のこと、覚えてる?」
「もちろんですよ」
「あの時、マルカは私に言ったわよね。大事なことを忘れているって」
「はい」
「ひょっとしたら、あの子も私と同じなのかなって……」
「同じ? ノンノとですか?」
「そう。あの子はお父さんお母さんを知らない。守らないといけない大事な人がいるのに、それが誰なのかも知らない」
「ノンノは、トイもノンノと同じようにこの世界に呼ばれたと考えているのですか?」
「ええ。よく分からないけど、そんな気がして」
「でも、博士はそんなことは何も言いませんでしたよ」
「そうね。私も聞かされてない。でも彼は、私がこの世界に来てからマルカ以外で初めて会った人間なのよ」
「そうですね。再生後のこの世界については私は何も知りませんから、何とも言えませんが」
「でも、もし彼も私と同じように呼ばれたのだとしたら、ずっとひとりきりで過ごしてきたってことになる」
「……」
「お父さんお母さんも知らないから、寂しいとかそういう気持ちはあったのかどうか分からない。でも、あんな小さな子がひとりだったって思うと……」
「ノンノ」
 マルカが、肩に手を置く。「考えすぎは良くないですよ」
「ええ。それは分かってるの」
「お茶が冷めます」
「そうね」
 暖野はカップを手に取る。
「お姉ちゃん!」
 勢いよくドアが開き、トイが飛び出してきた。
 肩で息をしている。
「どうしたの、トイ? 何かあったの?」
「起きたらお姉ちゃんがいなくて、誰もいなくて」
「どこかに行ったと思ったの?」
 トイが今にも泣き出しそうな顔で頷く。
「そしたら、すごく痛くなって……」そう言って、眉間と胸の辺りを押さえた。
「寂しかったのね……」
 寂しさを言葉で表せず表情と仕草で伝えようとする彼に、暖野は胸が痛くなった。「大丈夫よ。勝手にいなくなったりしない」
「本当?」
 トイが顔を上げる。
「うん」
 言いながら、暖野はそれを確約できるのだろうかと思った。意思に反して違う世界に飛ばされてしまう身なのに。
 いつかトイをひとり置いてどこかへ行かなければならないのなら、下手な喜びや癒しなど無い方がいいのかも知れないとも思う。一度誰かといる安心感や幸せを感じてしまったら、それを取り上げられる悲しさと寂しさは如何ばかりだろう、と。
 現に彼は、寂しさを知ってしまった。ほんの少しの間、離れていただけで。
 出会いが無ければ別れもない。出会う喜びが無ければ、別れる悲しみもない。
 だが、そうなのだろうか、と暖野は思う。
 そうだとしたら、喜びすら知らないままになる。それはこの上なく哀しいことだが、どちらの方が心に深い痛手を残すのだろうか。
 ただ一つ言えることは、自分たちが出会ってしまったということだった。そしてトイが、寂しさという感情を知ってしまった事実。
 それならば――
「トイ、こっちにおいで」
 暖野は先ほどのように、トイを抱き寄せた。
 いつか別れなければならないのなら、出会ったことを後悔するのではなく、出来るだけ多くの楽しい思い出を作ってあげようと思った。
「お姉ちゃん、泣いてるの?」
 トイが見上げて訊く。
「うん、ちょっとね」
「僕、悪いことした?」
「違うのよ。大きい人はね、変な時に泣いたりするのよ」
「ふうん」
 いい加減肌寒さを感じるまで、暖野はデッキにいた。マルカに持って来させた紐であやとりを教えたり、トイにビー玉遊びを教えてもらったりしながら。
 昼食を終えた後は、今度は隠れんぼをやった。さすがにこれは、船内を知り尽くしたトイに対して分が悪すぎた。マルカが鬼だったが、暖野はすぐに見つかったにも関わらず、トイはいつまでも捕まらずに最終的に船中を呼びまわることになってしまった。
 トイが隠れていたのは貯炭庫の奥、それも石炭屑の山の向こうだった。
「もうっ。トイったら!」
 暖野はトイを風呂で洗ってやりながら言った。また酔うといけないので、西洋風に泡だらけにして。水面が見えていなければ揺れも気にならない。
 トイはこれまで水浴びはしたことがあるが、風呂は初めてだと言った。浴室でのお湯の出し方が分からなかったのではなく、船に備え付けの浮き輪で湖に飛び込んでいたらしい。
 男の子というのは怖いもの知らずだと暖野は思った。もしその現場を目撃していたら、肝を冷やしただろう。
 風呂に入れたは良いが、トイの着替えがない。聞いてみても着替えと言うことを知らなかった。