久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~下
9. ひかりとともに
楽しい時間は瞬く間に過ぎてゆく。いくら時の過ぎるのを忘れていようとも、終わりの時間は情け容赦なく迫って来る。
敢えて気にしないようにしていても、刻限は刻一刻と近づきつつあった。楽団も暗い雰囲気の曲は避けているようだったが、そもそもダンス音楽には煽情的なものが多い。
誰も時間のことは言わない。わざわざそれを報せて暖野を落ち込ませるようなことはなかった。
いつもなら時報の鐘が時を告げるのだが、今夜ばかりは一度たりとも鐘の音は聞こえなかった。
ホールには絶えず音楽が流れ、賑わいを演じている。生徒も職員も打ち解けて、中にはいい感じに出来上がっている者までいた。言わずもがな、キナタもその一人だった。いつの間にか戻って来たリーウは、相変わらず食べ物を手にしている。少しずつしか食べてはいないとは言え、暖野はもう満腹だった。
しかし、さすがに疲れが出て来ている者の姿も見えた。それが唯一時間の経過を知らせるものだった。
ただ、知らずにやり過ごせられたら、それはどんなに良かっただろう。誰もがきっと、そう思っていたに違いない。
そしてついに、それまで止められていたのであろう鐘が、構内に響いた。会場内が静まり返る。音楽は途絶え、談笑していた人々は黙り込んで無表情になった。
「大丈夫だ」
フーマが、暖野の肩に手を置く。
「大丈夫って……」
「今すぐではない。ただ――」
言い辛そうに、フーマが一瞬だけ口をつぐむ。「不意打ちはしないという意味だろう。まだ、少しだが時間はある」
「覚悟を決めろってことなのね」
その言葉に、フーマはぎこちなく頷いた。だが、沈んだ表情はすぐさまいつもの憮然としたものに取って代わられた。
「踊ろうか」
暖野に手を差し出してくる。暖野がその手を取ると、フーマは彫像のように固まったままの人々の間を抜けてホールの中央まで進んだ。
フーマが一礼するのに合わせて、暖野も腰を落とす。
音楽が再び始まる。二人が軽くステップを試しているうちに、人々にも表情が戻り、息の詰まりそうな緊張が緩んだ。
奏者は二人の様子を確認しているのか、まだ本格的な演奏には入っていない。
「あと半刻」
フーマが真剣な眼差しで言う。「もう、お前を――暖野を離さない」
「うん」
暖野も頷く。「離さないで」
そして、「絶対に」と付け加えた。
腰に当てられた手に力が入る。それが合図だった。二人して見つめ合いながらゆっくりと回転すると、曲が優雅な旋律へと自然に変化し、そのまま軽快に踊り出す。まだ余力のある者からつられて踊り出し、場内は元の雰囲気に戻った。
「ねえ」
身体を動かしながら、暖野は訊く。「私といて、楽しかった?」
「そんな言い方は、するな」
不機嫌な声で、フーマが言う。
「どうして?」
「まだ、終わっていない」
「うん……」
でも、どう言えばいいのだろう。間もなく全てが終わってしまうのにと、暖野は彼を見る。
「楽しい。お前とこうしていられるのが、俺は楽しい」
「うん」
そうか、過去形にするなと言いたいのだと、暖野は理解した。今この瞬間の感情を、今この瞬間のものとして感じろということなのだと。
「お前は、どうなんだ?」
「うん」
暖野も真っ直ぐに彼の瞳を見据えて言う。「私も、楽しい。楽しいし、とっても幸せ」
「ああ」
それを聞いて、フーマが表情を和らげた。
ただ、そうしていても終わりの時間は迫る。どこか見えないところから、今この瞬間の幸福が蝕まれ、融かされてゆくような切迫感は如何ともしがたかった。話したいこと、伝えたいこと、言いたいことは山ほどあるのに、もっともっと聞いて欲しいことがあるはずなのに、何を口にすればいいのか分からないまま、暖野はフーマを見つめるばかりだった。
これまでのような激しい動きではなく、今はただ無理のない調子でリードされながら、暖野はいまでのことを思い返す。
初めてフーマと図書館で会った時のこと、その後の最初の実習、緊急警報と隠し部屋、向こうとこっちを行ったり来たりだった頃の時間酔い、食堂のプレッツェルサンド。そして……。
ふっと、暖野は笑いを漏らす。
「どうした?」
「うん。私って、実習では無茶苦茶だったなって」
「そうだな」
「そうでしょ? いきなり舞い上がったり、洪水起こしたり、アルティアさんに大怪我させたり」
「まあな。暖野は力加減が分からないと言うか、制御を見失う嫌いがあるが」
「落第生ね。あなたと違って」
「そんなことはない」
「どうして?」
「今は、しっかりやっている」
「そう? しまいには、リーウや他の子を部屋ごと吹き飛ばしたのに?」
「そういうことではない。今、ここでだ」
言われていることが分からずに、暖野は首を傾げる。
それを見て、フーマも笑みを漏らす。
「俺も、マーリのように言えたらいいのだがな」
「何よ、それ。言いたいことがあるなら、言えばいいじゃない」
「ああ……」
フーマが目を逸らす。「そう……。いや――何だ」
「もう。何よ」
暖野はわざとステップを崩して、フーマの足を踏んだ。
「何をするんだ」
「この期に及んで、何を迷ってるのよ」
「いや。迷っているのではなくてだな」
「じゃあ、何?」
「そう。上手く言えないんだが――」
「上手く言う必要があるの?」
「そう……だな」
それでもしばらくフーマは視線を宙に泳がせていたが、やがて暖野の目を捉えて言った。「お前は美しい。そして……そう、ただ美しいのではなく、そう――時々、恐ろしい」
「な、何ですって? 私のどこが?」
思いもよらぬ言葉に、暖野は気を悪くした。
「いや、悪い意味ではなくてだな」
「じゃあ、どういう意味よ」
「お前を見ているとだな、時々自分の内側をかき回されるような感じがする……」
「それで?」
「俺には分からないが、それが、マーリの言う“かわいい”ということなのか?」
「それを私に聞くの?」
暖野は笑ってしまう。フーマは結局フーマなのだと。どこか得体が知れなくて、頭がいいくせに抜けていて、時々愚にもつかないことを口にする。
「分からないから聞いているのだが」
「馬鹿」
「まあ、そうだな。それを教えてくれたのが暖野だ。感謝している」
「ホンッとに、馬鹿」
暖野は上目遣いに睨んだ。
次の瞬間、フーマが暖野を思い切り引き寄せ、抱き止める。ペースを乱されて何も出来ないままに唇を奪われてしまった。
「ずるいよ……」
衆目に晒されている恥ずかしさよりも、不意打ちでキスされたことに抗議する。
「少しテンポを上げようか」
「そ……そうね……」
このままでは気まずいだけになってしまう。熱情すら演舞の一つの要素としてごまかすしかなさそうだった。
こうして体を動かしているだけでも、嫌なことを悶々と考えているよりはずっといい。完全に忘れることは出来ないまでも、気を紛らわせる助けにはなる。そんなことまで考えた上で、フーマがテンポを変えているのだろうかと思ってみる。そして、すぐさま心の裡で否定した。フーマには、そんな器用なことは出来ないはずだと。
でも、と彼を見上げる。ずっと暖野を見ていたであろうその眼と鉢合わせして、慌てて視線を逸らした。
作品名:久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~下 作家名:泉絵師 遙夏