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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上

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9. 転移者


「すまないね」
 学院長は言った。
「どうぞ」
 暖野はコーヒーのカップを学院長の前に置いた。次いで、砂糖とミルクの小瓶、自分のカップをテーブルに置くと、ソファに座る。
「あいにく秘書も会議の議事録係に駆り出されてしまって、申し訳ない。君にこんなことまでさせてしまって」
「いえ、これくらいのこと」
「まず――」
 イリアンはコーヒーに砂糖を落としながら言った。「学寮部長の見解は、この学院の見解そのものだ。誰も君を犯人だとは思っていないよ」
「……」
「ただ、君には秘密がある。そうじゃないかね?」
「……」
「責めているわけではないよ」
 今度はミルクをたっぷりと注ぎながら、イリアンが言う。「言えないとかではなく、隠しているのでもない秘密。君自身も知らない何か」
 その言葉を聞いて、何故か突然涙が溢れてくる。
 え? 何よ? 何で泣くのよ――
 触れられたことのない胸の裡を開かされたように、無性に何かにすがりたい思いに駆られる。
「君は、転移者だね」
「転移者?」
 涙に濡れた顔を、暖野は上げた。
「そう。別の世界から転移してきた者。もっとも、ここにいる者のほとんどはそうなんだが、それは通いの者と呼びならわしている。私の言う転移者とは、本来属する時空から転移してきた者のことで、君の場合はその転移した世界からさらにこちらへ通っている」
 イリアンは、真っ直ぐに暖野を見つめてくる。
「そうだ、と思います」
「そう深刻にならなくともよい。君がここへ来たのには理由がある。そして、転移したのにも理由がある。重転移者はとても貴重な存在だ。そうだね――年を取ると、どうも話がまどろっこしくなっていかんな……」
 イリアンがコーヒーを一口すする。
「私が見るところ、君は多重転移者だと思う。君はここへ来る前――つまり、転移した世界で誰かに会ったかね?」
「はい」
 恐らく、沙里葉のある世界のことだろうと暖野は思って答えた。
「その人は、君に何か言っていなかったかね?」
「……」
 暖野はしばらく考え、そして言った。「私が、何か大事なことを忘れているとか、そうしなければいけなかったとか……」
「やはり、そうか。――それで詳しいことは?」
「いえ、それ以上は話してもらえませんでした」
「君自身に、そのことに関して何か心当たりはあるかな?」
「いえ……」
「ふむ……」
「そう言えば、夢を見ました。すごく不思議な夢で、経験してもいない未来のこととか」
「それは、楽しい夢だったかね?」
「いえ……」
 膝に置いた手に、涙が零れ落ちる。
「恐らく、君の会った人の判断は正しい。私もそのことについては多くは語れないと思う」
「何か! 何か分かるんですか!?」
 暖野は堪えきれずに訊く。「私が何を忘れているのか。大事なことは何なのか!」
「それは、君自身が見つけることだ。私からは何も言えない」
 無言の時間が流れる。暖野はまだ、自分のカップに手をつけてもいなかった。
「そうだ」
 イリアンが思い出したように言った。「君は、昼の騒動について、思い当たることはないかね?」
「はあ……」
「何度も言うようだが、君には罪はない。あれは事故というか、反応――いや、違うな。反射のようなものだと理解しているんだが」
 暖野は、時計のことを思った。あの時、リーウが時計に触れるか触れないかというその瞬間に事は起こったのだから。
 見せるべきだろうか。もし見せて、取り上げられたら――
 でも、もし何か分かるのなら――
 暖野は、恐る恐る懐中時計をポケットから出して見せた。
「おお……」
 イリアンが驚嘆の声を上げる。「これは素晴らしい……」
 彼が手を伸ばしてくる。
 暖野は急いで時計を引っ込めた。
「駄目です! さっきもこれで――」
「そうか、そういうことだったのか」
 イリアンは合点がいったように手を叩いた。
「なるほど。それには、結界が張られているのか」
「結界ですか?」
 言いながら、宏美は平気で触っていたし、ルクソールでもマスターに何の危害ももたらさなかったのにと、暖野は思った。
「どれ、取ったりしないから、私の前にそれを置いてくれるかい? もっとよく見てみたい」
 イリアンが言う。
「はい、どうぞ」
 暖野は言って、彼の前にそれを置いた。
「案ずる必要はないよ。これは、いかなる力を以てしても君から奪えるものではない。――それにしても、このようなものが現存しているとは……」
「これって、そんなにすごいものなんですか?」
 さっきのリーウの反応もあって、暖野は訊く。
「すごいも何も……。生きている間にこれを目にすることが出来ただけで、私の人生の全てが報われる――」
 イリアンは、自身では触れることの出来ないそれを感極まった表情で見つめている。
 暖野はそれを邪魔するのも憚られて、黙っているより他なかった。
「悪いね。すっかり見入ってしまった」
 どれくらい経っただろう、イリアンが申し訳なさげに言った。
「これは、何なんですか?」
「マナの結晶で作られた鍵だよ」
「鍵?」
 確か、アゲハもそう言っていなかったか。
「そう。実体は時計として造られている。それ自体は特に珍しいものではない。だが、マナの結晶を成型し、それを永続的に維持させる技術は遥か昔に廃れたはずなのだよ」
 これは、いわゆるオーパーツなのか、と暖野は思った。だとしたら、3500円は破格だ。
「しかも」
 イリアンが続ける。「非常に強い想いが込められている。技術は古いが、造られたのは……そう……それは、私にも分からない」
「学院長にも、分からないことがあるんですか?」
 意外に思って、暖野は訊いた。
「もちろんだ。分からないことがあるから、人間でいられる。全てを知ってしまったら、それは神だ。そして、全てを知っていると思っているのなら、ただの愚か者だ」
 それはそうだろうな、と暖野は思った。マルカも、一つのことを知ることはそれ以外の知らないことを増やしてしまうというようなことを言っていた。
「マナを結晶化させることは容易い。だが、我々にとってマナは消費するものであって過剰に蓄積するべきものではないというのが一般的な見解だ。必要以上に蓄積されたマナはハレーションを起こし、その保持者を含めた周囲の者の目を眩ませる」
「あの……」
 感慨に耽っているイリアンに、暖野が問う。「この時計のことなんですが、造られたのがいつかは分からないとおっしゃいましたね」
「申し訳ないが、それは本当に分からない」
「普通は、分かるものなんですか?」
「大体は分かる。どの世界でどの年代に造られたのか、概ねのことは」
「でも、これに関しては分からないんですよね」
「言い辛いが、その通りだ。ただ、憶測だが言えることは――」
 イリアンは言うべきかどうか逡巡しているようだった。
「お願いします。何でもいいですから、可能性だけでも」
「うん、そう――。そう……」
 それでもイリアンは顎に手を当てて、しばらく考えていた。そして、話し出す。「この学院は、実は君たちの言う仮想空間のようなものに存している」
「仮想空間?」
 想像世界って言えば、そのままか――
 ではなくて、もっと他の――?