久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上
このところ、ずっと寝不足続きだ。どうせ眠れないのなら眠気もなければいいのにと思えるほどに。
一度など朝に降りる駅を寝過ごしてしまった。幸い遅刻せずに済みはしたが。
だが、さすがに朝のどうしようもない気怠さとは馴染みになりつつもあった。元々朝に強い方ではなかったが、ここ数日は特に酷く、倒れないのが不思議なくらいだった。
いっそのこと、倒れてくれればいいのに……。
暖野は思った。そうすれば、少なくとも体育の授業だけは受けなくて済む。もっとも、今は体育の時間ではなかったが。
睡眠不足の原因は、あの夢にあった。しかも、今朝のはとりわけ鮮明に記憶に残っている。
それは、こんな夢だった。
一人の少年が見知らぬ街角で佇んでいる。そこは石畳の広場になっていて、まるでヨーロッパの古い都市を思わせた。少年は暖野の姿を認めると、街路灯の支柱に預けていた身を起こし、彼女に近づく。そして語るのだ。
「やっと、逢うことができましたね。私はこのときを、ずっと待っていたのです」
そして、こうも言った。
「どうか、応えてください」
「応えるって、どうすればいいの?」
少年の真摯な眼差しに、暖野は訊ねる。
「簡単なことです。それは――」
夢はそこで唐突に終わった。
目覚まし時計がけたたましく鳴り響き、彼女の意識は無理矢理現実へと引き戻されたからだ。
夢というものはいつも、ここぞという肝心なところで醒めてしまう。その分、よりいっそう印象には残るのだが、少なくともその朝いっぱいは寝覚めの悪い思いを引きずることになる。
今日の暖野が、そうだった。彼女はこの手の夢を初めて見るのではなかった。そう、ここ数日彼女を悩ませていたものこそ、まさにこの夢だったのだ。
夢の中に具体的な物が出てきたことで夢判断に照らし合わせることは可能にはなったが、そんなことは意味のないことだった。なぜなら、彼女は同じ夢を立て続けに見ていたからだ。それが外国風の街並みだろうと古風な街路灯だろうと個々の物それ自体には、さして重要性は感じられなかった。それよりも、同じような夢ばかり何度も見るということにこそ、問題があるのだった。
昼休み、暖野は二階にある教室の窓から校庭を見るともなしに眺めていた。
陽光を受けて眩しいグラウンドでは、幾人かの男子がサッカーなどをやっている。時おり歓声が上がったりして結構楽しそうだ。
暖野は時計を取り出して眺めた。秋の陽を照り返し、それ自身が輝いているかのようにも見える。しかし、針は停まったままである。
「のーんの!」
背後から急に抱きつかれて、暖野は文字通り跳び上がった。
宏美だった。
「もう! 宏美ったら!」
体に巻き付いた腕をふりほどき、暖野は宏美を睨みつけた。「びっくりするじゃないのよお!」
「だって、またぼうっとしてるんだもの。スキだらけよ、暖野」
「そういつもいつも、緊張してなんかいられないわ」
「そうなの? 私には、ここんとこずっと悩んでるみたいに見えるけど」
「そう?」
「やっぱり、恋煩いなんでしょ? いい加減、隠さずに話してしまいなさい。この宏美さんが聞いてあげるから」
「とんでもない勘違いだわ。宏美にかかったら、寝ぼけてるだけでも恋する乙女にされてしまうわね」
「その逆よりはいいでしょうに」
「まあ、ね」
そりゃあ、確かにそうだ。真剣に悩んでるのに「眠いの?」なんて言われたら、さらに落ち込んでしまう。
「ねえ、言っちゃいなさいよ」
「そんなんじゃないってば」
「だったら、何な――」
宏美は言いかけて、一瞬言葉を切る。次の瞬間、宏美の口調は一変していた。「ああっ! かわいい時計!」
宏美がやおら飛びかかってきて、暖野は慌てて時計を持った手を後ろにかばった。
後になって考えてみれば、そんなことをすれば却って怪しまれるだけだとわかるのだが、そのときは咄嗟にそんな行動に出てしまったのだった。
「何よ何よ。隠さなくたっていいじゃない。ねえ、それ、どこで買ったの?」
暖野の腕をつかんで強く揺さぶりながら、宏美は執拗に訊いた。
「こ、これね……。ルクソールで買ったのよ」
変に言葉を詰まらせながら、暖野は言った。
「ルクソールで?」
「そう」
「いつよ。私、全然知らなかった」
「2、3週間ほど前かな」
暖野はわざと、おおよそで言った。
「ちょっと待ってよ。それって、ひょっとして私がケーキおごらされた日じゃない?」
案の定というか、宏美は素早く覚った。
「よくそんなこと憶えてるわね」
暖野は苦笑する。
「当たり前よ。こちとら、小遣い前の乏しい資金をふんだくられたんだから」
「言葉遣い」と、暖野は一言、あまり上品とは言い難い宏美の言葉をたしなめる。
「言いたくもなるわよ」
「せこいこと言わないの。私だって、お小遣いはたいたんだから」
「暖野はいいわよ。自分のために使ったんだから」
「そんなに言うなら、今度は私が出すわよ」
「別にいいけどね。おかげで無駄な努力をすることもなくなったし」
幻の彼氏に贈るマフラーのことを言っているのである。
「そうそう。焦ったら却ってよくないわよ」
「いつものことながら、情けない話よねえ。世の男どもは、一体どこに目を付けてるんだか」
「そう愚痴らないの」
暖野は、宏美の肩を軽く叩いてやった。
宏美の言うように、この二人には浮ついた噂のひとつも立たない。火のないところに煙は立たないと言うが、二人の場合はその火種すらないありさまだった。だからといって不美人であるというわけでは決してなく、世間では中――二人にしてみれば、中の上――ほどだとは自認している。要するに、普通なのである。
「そうか、ルクソールか……」
宏美が時計のことに話を戻した。「じゃあ、同じのはもうないってことね。残念」
宏美とて、ルクソールがアンティークショップだということくらいは知っている。
「でも、懐中時計ならデパートなんかにも売ってるわよ」
気落ちする宏美を励ますように、暖野は言った。
「ねえ、その時計、よく見せてよ」
今さら隠す必要もないので、暖野は時計を手渡した。
「落とさないでよ」
「わかってるって」
宏美は時計を受け取ると、様々な角度からそれに見入った。
「なんだ、停まってるじゃない」
上蓋を開けて、宏美が言う。
「動かないのよ」
「壊れてるの?」
「一応、修理には出したんだけどね」
「壊れて動かない時計を売りつけるなんて、とんだ店よね。まあ、それを買う方も買う方だけど」
宏美が憤然として言い放つ。
暖野としては動かないのを承知で買ったのだし、無理やり不良品を売りつけられたわけでもない。
自分が気に入って買ったものを悪く言われるのに悔しいような気がした暖野は、時計屋の御崎の話をかいつまんで宏美に話した。
「ふうん。おかしな話もあるもんね。どこも悪くないのに動かないなんてさ」
「だからね、どうやったら動くようになるかって、考えてたのよ」
作品名:久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上 作家名:泉絵師 遙夏