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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上

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14. 戻りたいのに


「じゃあ、道も見つかったことだし」
 そう言って、元気よく歩き出す彼女を、マルカが呼び止める。
「待ってください!」
「な、何よ。また恥ずかしいことを言うつもり?」
 立ち止まって、不満げに暖野は言った。
「靴を履いた方が、いいんじゃないですか?」
 それもそうだ。砂の上ならまだしも、先に見えている道の状況は裸足で歩くには辛そうだった。
 マルカは荷を下ろし、靴とソックスを暖野に手渡す。
 それらを装備すると、彼女は意気揚々と小径を歩き出した。
 道は、ほとんど真っ直ぐに続いていた。初めは砂地だった道も次第に締まった土になっていった。
 ほんの数分で、二人は大きな道に出た。道は広く、片側には軌道が敷かれている。ここは、朝方二人が降りた停留所からの延長線上にあるらしかった。
 何だ、こんなに近くにあったんだ――
 湖岸から電車道まで百メートルもなかったはずだ。わずかな差で必要のない苦労を背負い込む羽目になってしまったのだと、暖野は自らの選択の誤りを認めざるを得なかった。最初から引き返していれば、水に濡れることもなかったのだ。
 今更そう思ってみたところで後の祭りだった。とりあえずは、道に出られたことだけでも喜ぶべきだろう。
 傍の電柱には、今朝に見たのと同じような看板がある。ということは、ここも停留所なのだ。よく見ると、ほとんど草地と同化してしまった足場も確認できた。
 電車でもバスでも、乗り場には必ず時刻表があるはずだが、それらしいものは見当たらない。小さな看板には五文字ほどが記されているだけで、他は何も書かれていない。
 二人は休憩も兼ねて、足場に腰を下ろして電車を待った。
「寒くはありませんか?」
 マルカが訊いてくる。
 もうほとんど乾いているのに、一旦濡れてしまった衣類はやはり気持ち悪かった。
 動いているときならまだしも、こうして休んでいると体も冷えてくる。
「もう乾いてるでしょ?」
 暖野は言った。
「そうですね。大丈夫だと思いますよ」
「いいわよ。自分で取るから」
 マルカを制して、暖野は自ら結んであった制服の両袖をほどいた。
 上着を着込むと、幾分肌寒さが和らいだ。
 それにしても、ポケットの辺りがいまだに濡れている。手を突っ込んでみると、粘土のようになったティッシュペーパーが出てきた。暖野はポケットを引っ張り出すと、内側をきれいにはたいた。
 しばらく待ったが、電車は現れなかった。
 朝もそうだったが、乗りたいと思ってからすぐに来るのではないようだ。ひょっとすると、彼女の思いを感知してから車庫を出発するのかも知れなかった。
 もしそうならば、あの速度ではここまで1時間以上はかかるだろう。
 乗りたい電車は街へと戻る方だったが、もう一方の終点がどれほど遠くにあるのかは分かりようがない。朝の電車が戻って来るのか、また別のものが来るのかすら不明だ。
 陽はすでに、かなり傾いている。
 少しくらい歩いても、同じことだと思われた。どうせ彼女たちを拾うために電車が来るのなら、いずれどこかで追いつかれるだろうからだ。それならば、ここで待ち続けるのが得策だろう。
 野を渡る風が冷たくなり、ただ待つのにも嫌気がさしてきた頃、遥か道の彼方に砂煙が見えてきた。
「見て。電車よ!」
 暖野は立ち上がって、そちらを遠望する。
 見通しが良すぎるために、それはなかなか近づいて来ないように見えた。
 望んでいた方角からではなかったが、とりあえず電車はやって来た。
 やがてそれは大きく車体を揺らしながら、二人の前に停車した。やはり運転士はいない。これに乗っても、街とは逆方向になる。暖野はこれをやり過ごそうとした。いずれ反対側からも電車は来るだろうと。
 だが、電車は動こうとしない。
 乗務員がいれば、乗らない意思表示も出来ようものだが、無人の場合はどうすればいいのか。暖野は身振りで乗らない旨を知らせようとしたが、通じなかった。無駄とは知りつつ言葉にもしてみたが、それも効果はなかった。
 電車は、二人が乗るまで頑として動かないようだった。
 もう日も暮れかかっている。歩いて沙里葉に戻るのも無理そうだった。不本意ではあっても、ここは乗るよりなかった。
 どうせ終点まで行ったら折り返すだろうし、そうそう下手な所へ連れて行かれることもあるまい、と暖野は思った。
 二人が乗ってしまうと、案の定電車は動き出した。モーターの音が甲高くなり、次第に速度が上がる。時速30キロ程度でも音だけは立派だ。軌道の状態が良くないため、揺れは相当酷い。道が舗装されていないせいか、砂を踏んでいるような音と振動もあった。
 途中から、車内に灯りが点った。
白熱灯が車内をオレンジ色に照らす。架線との接触が悪いようで、明るさは安定していない。
 窓の外は夕照に映え、金色の草原が広がるばかりだった。
 どこまでも同じように見えていた景色に変化が現れ始める。
 草の丈が低くなり、樹木が散見されるようになった。道も直線ではなく、カーブを繰り返している。電車の速度も遅くなっているようだ。
「あ……」
 暖野は声を上げた。
 道は、知らぬ間に高度を上げていた。二人は湖を背にする形で座っていたが、視線の先に輝く湖面が見えた。電車はほぼ180度方向を変えていたのだった。
 電車はほどなく樹林帯に入り、湖は見えなくなった。
 一体どこまで行くのだろう――
 速度は遅いものの、停まる様子もない。
 軌道はやがて道路から離れ、今は森の中を単独で走っている。両側の窓に木々の枝が間近に流れる。先ほどまでの眩しい光景は消え失せ、鬱蒼たる森の暗さだけが辺りを支配していた。
 かなりの急勾配であるらしく、モーターが悲鳴のような唸りを上げている。歩いた方が早いかと思われるほどの低速だった。
 森はどこまでも続いた。明るい陽光の下にいた時とは対照的に、先へと進むほど暖野の心も暗く沈んだ。こんなおもちゃのような電車で山越えをするとは考えられなかったが、今日はもう街へ戻るのは諦めた方がよさそうだった。
 宿には悪いことをしたが、戻れないのでは仕方がない。
 もっとも、詫びる相手が誰なのかも定かではないのだが。
 モーターの音が幾分静かになると、樹々もまばらになって来たような気がした。淡い光が所々から差していることも、そのことを示している。
 電車は遅れを取り戻そうとするかのように速度を上げ、小川の横をしばらく走った。
 川から離れると、速度が格段に落ちてきた。どうやら、今度こそ本当に停まるらしい。
 こんな山の中で降ろされてもね……
 暖野の困惑をよそに、電車は駅に滑り込んだ。
 そこは、彼女の予想に反して、小綺麗な駅だった。
 停まったということは、即ち降りなければならないということだろう。
 暖野は短いプラットホームに降り立って、いずれにせよここで降りるしかなかったことを知った。なぜなら、その先に線路はなかったからだ。レールはホームの先端部分で、車止めとなって終わっていた。
 ホームにはささやかな灯りがあり、電車を照らしている。
「ここは、どういう所なの?」
 隣に降り立ったマルカに、暖野は訊いた。
「さあ。ただ、随分と森の奥まで来てしまいましたね」