久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上
12. 喪失の乙女
視界を、何かが横切る。
暖野は目をこすった。
水色のドレスを着た女性が、中庭を横切って歩いて行く。
身動き出来なかった。
眼前に広がる景観に、呼吸することすら忘れてしまうほどだった。
中庭には、荒れ果てた様子は微塵もなかった。それどころか、崩れた建物など一つもなくなっていた。
中庭の左手には城と言うよりも宮殿と呼ぶのが相応しい建物がある。右手にも、それよりは小さいながらも同じような建物があった。噴水の水が陽光を浴びて輝き、庭には色とりどりの花が咲き乱れている。手入れされ剪定された庭木が程よく配置されていた。
ドレスの女性はまるで誘うような足取りで、庭から続く道を奥へと進んでゆく。暖野は半ば魅入られたかのように、その後を追った。
花々が放つ芳香に包まれ、彼女はそれにうっとりとしながら歩を進める。女性は暖野の存在に気付いているのかいないのか、奥へ奥へと進んでゆく。
女性の姿が突然見えなくなる。
暖野は小走りになった。
弧を描く道の先は、やや広くなっていた。
目の前には、背丈より少し高いくらいの生垣。周囲を見ても、女性の姿はない。
まさか、迷路?
ヨーローッパの庭には、生垣を迷路のように巡らしたものもあるのを、彼女は知っていた。そんなものに付き合っていられるほどの心の余裕は、今の暖野にはもちろんなかった。
だが、どうやらその中へ入るしかなさそうでもあった。それに、この世界で新たに出会った人物を、みすみす見逃す手はなかった。
意を決して生垣の中の道へ足を踏み入れる。幸いなことに、それは迷路ではなかった。生垣は単なる目隠しでしかなかったのだ。
周囲を生垣に囲まれた中央に、瀟洒な白い四阿(あずまや)があった。だが、追うべき者の姿は、そこにはない。
暖野は円形の広場を突っ切って、反対側の生垣の向こう側へと出る。そこでやっと、前を行く青いドレスを見つけることが出来た。
前には円筒形の建物がそびえている。ドレスの女性は、そこへ向かっているらしかった。
暖野は、自分の姿が相手の目につくのにも構わずに、芝生の中の道を進んだ。
女性が建物の中へ入る。
目前にしたその建物からは、これまでにない存在感が感じられた。きっと重要な施設なのだろうと、暖野は思った。
開け放たれた扉から中を窺ってみる。
外の明るさに馴れた目には、暗くてよく見えなかった。
恐る恐る、中へ入ってみる。
目が馴れるまで、しばらく時間がかかった。
そこは、いわゆる聖堂のようだった、上部に並んだ窓から光が差し、内部を幻想的に照らしている。
正面には祭壇があり、その背後には天井にまで届く画があった。恐らく女神なのだろう、剣と大きな羽根を持った女性が描かれており、その頭上では太陽と月が重なり合っている。太陽からは金の、月からは銀の光線が放たれ、アーチ状の縁取りよりもさらに外側へ延びている。光線の末端部には、それぞれ一つずつの文字が配置されているのが見えた。
しかし、その顔の部分はどういう加減でか、まばゆい光の反射のせいで見ることは出来なった。
神の顔は、そうそう拝むことは許されないということか――
ドーム型の天井は、まるで光のかけらを散りばめたように、反射光で彩られている。
なんとも荘厳な眺めだった。暖野はすっかり度肝を抜かれて、それらに見入っていた。
不意に目の前に人が現れ、暖野は硬直する。
それは、彼女がここまで追ってきた女性だった。
まだ少女だった。歳は、暖野と変わらないのではないかと思われた。
少女は、真っ直ぐに暖野を見つめている。
黙って後を尾けて来たことを責められるのではないかと、暖野は緊張した。
だが、その心配は無用だった。
少女が微かに微笑む。
「あなたは……」
ほとんど聞き取れないようなかすれ声で、暖野は言う。
「わたしは、ルーネア・ケィ・コーセム・フエナ」
少女は、透き通るような声で言った。「あなたをここへ導くのが、わたしの役目です」
「私を……導く?」
「そうです」
冗談を言っているようではなかった。
「どうして……?」
「わたしは笛奈の、残されたたったひとりの末裔。この城の最後の城主……」
ルーネアと名乗った少女は、唄うように語りだした。「わたしは築かれた石の全て、茂る草の全て、影を落とす全てのものの中で、歴史を示すときが来るのを待っていました。あなたの存在を感じたとき、わたしはそのときが来たことを知ったのです」
私が来た時? それは、いつのことを指しているのだろう――?
暖野は思った。この城跡に踏み込んだ時か、はたまた沙里葉に来た時点でのことか。だがさし当り、そのことは大した問題ではなかった。
少女が語り続ける。
「ここには、あなたの識(し)るべきことが収められています。残念ながら、わたしには解釈を与えることはできません。それは、あなた自身のうちで成就されねばならないのです」
「ちょっと待って。何を言ってるんだか――」
少女がやおら抱き着いてくる。
ために暖野の抗議は、背後の広大な空間に吸い込まれるようにして消えてしまった。
互いの布地を通して、少女の微かな温もりが伝わってくる。
私、こんな趣味はないんだけど……。
そうは思っても、少女を突き返すだけの力が、今の暖野にはなかった。
「あなたは、こんなにも哀しい……」
耳元で、甘やかに少女が囁く。「数奇なあゆみを辿ってこられたのですね。自らの運命に背かれ、数多の苦しみを背負わなければならなかった……」
少女は一体何を言おうとしているのだろう。私は、そんなに哀しい運命なのだろうか。初めて会った人にも分かるくらいに――
暖野は何も言わず、その抱擁を受け止めていた。
何――!?
暖野は衝撃を受けた。
少女が涙していたからだ。
どうして……、どうして泣くの?――
哀しいのは、本当はあなたなんじゃないの?
哀しいのは――
風が、暖野の髪を揺らす。
――本当は、あなたなのよ……
言葉だけが取り残された。
ルーネアの姿は、もうどこにもなかった。
暖野は廃墟の中にいた。あの円形の聖堂の廃墟の中に。
夢? まさか――
少女の温もりが、まだ残っている。背中に回された手や、耳にかかる髪の感触も、いまだ生々しかった。
彼女は私に何を伝えようとしていたのだろう? ここには、私の知るべきものがあると言っていたけど――
正面の、女神を描いた壁画はほとんど失われ、祭壇は風雨に晒されてひび割れていた。磨かれたように滑らかだった床には崩落した建材が散乱し、今ではあちこちから草が顔を出している。聖堂内の基部にあった彫刻画だけが、辛うじて崩壊を免れているだけだった。
暖野は祭壇に歩み寄る。
色鮮やかだった壁画は、もはや何が描かれていたのかも判別不能だった。
一体ここで、何を見ろって言うの?――
あの厳かで壮麗だった面影はどこにもない。
暖野は彫刻を見てゆくことにした。それくらいしか、ここには見るべきものが残されていない。
祭壇に一番近い場所から時計回りに進む。
作品名:久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上 作家名:泉絵師 遙夏