久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上
黒い学生鞄では、常に片手が塞がってしまう。どこの誰が、冒険に出るのに学生鞄を装備に選ぶだろう。
あの宿でもう一泊することにして正解だったと、暖野は思った。
戻ったらもう一度きちんと見て回り、絶対に道具屋と服屋を見つけると決心したのだった。
林の前方が明るくなってきた。青い水面が見えている。
湖畔に出た所で、道は終わっていた。
そこは砂浜ではなく岩場だった。
湖は静かだった。穏やかな波が、白っぽい岩の連なる岸辺に打ち寄せている。水音と微かな風が、心を和ませる。よく晴れた空には、遠く白い雲が幾つか浮かんでいた。
二人は岩場を、右手に進路をとった。
所々に岩の裂け目があり、飛び越えたりしなければならない個所もあった。陸側には木や荊(いばら)が密生しており、湖岸を進むしかなかった。
少しでも危なそうな場所ではマルカが手を貸してくれるが、登山服なら一人でも大丈夫なのにと、暖野は歯痒かった。
それに――
どうして、こんなことしてるんだろう――
湖を見るだけなら、何もこんな苦労をする必要はないはずだ。
「ねえ」
暖野が訊く。「私たち、どこへ行こうとしてるの?」
「さあ……」
マルカが不思議そうに彼女を見る。「私は、ノンノについて来ただけですが」
こちらの方へ一歩を進めたのは、確かに暖野だった。何故そうしたのかは、自分にも分からない。
振り返ると、林から出て来た場所はもう定かではなくなっていた。
澄み切った水面を見てみる。ここにも魚の姿はない。水草すらなく、湖底の様子が手に取るように分かった。
「それ、何だと思う?」
水面に顔を出している岩の一つを指さして、暖野は言う。それは激しく風化してはいるものの、人工物のようだった。
改めて注意深く見てみると、同じような形のものが水面下にもある。
橋の一部のようだった。崩落してしまったのであろう、アーチの断片のようなものもあった。ここにはかつて、先ほどの林の道から続く湖上の道があったのだろう。
岩場はあと少しで終わる。橋の跡もそちらへ続いていた。
「何かの……跡ね」
最後の岩を、マルカに手伝ってもらいながら登り終えると、そこは広々とした丘のような場所だった。丈の低い草に覆われたそこかしこに、石造りの建物の残骸があるのが見える。
「そう言えば、さっきの停留所に“笛奈(フエナ)城”と書いてありました」
マルカが言った。
「なんだ、読めるんなら最初に教えてよ」
「不思議ですね。私もあの時は読めなかったのですよ。今になって、やっと気づいたんです」
彼が嘘を言っているようには思えない。
だが、そんなことがあるのだろうか――
「じゃあ、ここはお城の跡なのね」
気を取り直して、暖野は言う。
言われてみれば、確かに城跡のようだ。ほとんど崩れてしまった塔、かろうじて残った建物の壁面。取り残されたように立っている壁に開いた窓は、今や空虚な穴でしかなかった。
湖の側には遊歩道か何かがあったようだ。ほとんど石だらけの道と化してはいるが、ここにも綺麗に敷き詰められた石畳があったのだろう。所々に立っているのは手すりを支える柱のようだ。
護岸の石垣も崩れ、自然の波打ち際と変わらなくなっている箇所も見受けられた。陸の方は、まるで城跡を保存するためであるかのように、湖以外の三方を森が囲んでいる。
湖から少し離れると、隙間から草が出ているものの、石畳は原形を留めていた。ただの観光で来たのならば、これほど素晴らしい場所はなかっただろう。
弱い風に吹かれて廃墟に立っていると、不思議な気分になる。暖野は、かつては栄華を誇ったであろう城の過去の姿に思いを馳せた。
湖面に映る窓の明かり、舞踏会の音楽、優雅な身のこなしで庭を散策する貴婦人たち……
でも、ここは本当に栄えたことがあるのだろうか。ひょっとしたら、最初から廃墟として存在していたのではないか――
そんな疑問が、ふと胸の裡を過る。
この世界が誰かの想像の産物だとしたら、そういうこともあり得るだろう。しかし、生まれながらにして廃墟であるなど、そんな理不尽なことがあっていいものだろうか。
現実は絶えず人を急き立てるが
それに追われるものは真実を見失う
真実はそれを見極めようとしなければ
容易く混沌の中に紛れてしまう
その文句は、彼女の心の中を風のように通り過ぎて行った。暖野はしばし、呆然と立ち尽くしていた。
暖野は激しく頭を振った。
さっきのは何だったのだろう――
作品名:久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上 作家名:泉絵師 遙夏