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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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久遠の時空(とき)をかさねて ~Quonฯ Eterno~上

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5. 少年


 石の冷たい感触と膝の痛みが、暖野を我に返らせた。
 バスが行ってしまってから、どれくらい経ったのだろう。
 暖野はあれから急に体中の力が抜けて、石畳にへたり込んでしまっていたのだった。
 暖野は、のろのろと立ち上がった。
 広場の様子に変化はない。
 気が抜けてから今まで、暖野の気を惹きそうな変化など何もなかった。だからこそ、膝が痛くなるまで放心状態でいられたのだ。
 車一台、人ひとり、この広場には入ってはこなかった。ここで動くものと言えば、彼女と噴水の水だけだった。
 暖野は駅とおぼしき建物の方に足を向けた。
 石造りの重厚な三階建てのもので、縦長の窓と入口の高さは、一階分が見慣れた建物よりも相当高いことを示している。正面の幅広の階段の手すりには彫刻が施されており、その上端と下端の石柱には何かの像が据えられていた。
 どう見ても博物館だった。どうしてこれを駅だと思ったのか不思議なくらいだ。
 暖野は手すりに手をかけ、ゆっくりと石段を登った。せいぜいが5段ほどの階段。
 間近で見上げると、建物はそびえるように高く見えた。
 入口のアーチをくぐる。三つあるうちの一番左側のアーチだ。
 建物の中は薄暗い。灯りが点いていないせいだ。たそがれた光が射し込んできているが、内部をくまなく照らすほどではない。
 磨き込まれた大理石のような滑らかな石の上を暖野は歩いた。
「駅だわ……」
 暖野は呟く。
 正面には改札口。見知った自動改札ではなく、係員が切符を切るタイプのものだ。その奥に行き止まり式のプラットホームが見えた。そこに列車は停まっていない。発車時刻や行き先を示す表示も見当たらなかった。
 やっぱり、夢を見ている――
 どう考えも、これは普通の状況ではない。
 ここは洋画に出てくるターミナル駅そのものだった。
 暖野は頬をつねってみた。夢か否かを確かめる伝統的な仕草だが、それが本当に役に立つのかどうかは疑わしい。現に彼女はそれによっては確信を得ることはできなかったのだから。
 改札前は吹き抜けのホールになっており、改札口の上の壁面にはレリーフが施されている。反対側に目を転じると、入口上の窓が黄昏の光に輝いていた。
 ここにも人の気配はなかった。
 ふつう、駅というものは絶えず人がいるものと思っている暖野は、心細さを覚えずにはいられなかった。
 改札口に向かって左側に切符売場があった。自動券売機が並んだものではなく、はたまた“みどりの窓口”のような近代的なものでもない、昔ながらの出札口。上には路線図らしきものが掲げられている。駅の雰囲気というものは、新旧を問わず似たようなものがある。
 今はICカードがあるため券売機すらあまり使われなくなっている。彼女も窓口を利用するのは、定期券を買う時とワンゲル合宿で山に行くときくらいものものである。
 暖野は切符売場のカウンターの方へ歩み寄った。窓口があるからには、人がいるかも知れない。
「すみません」
 窓口の一つで呼びかけてみる。最初は小さな声だったが、二度目は思い切って少し大きな声で呼んでみた。
 その声が思いの外ホールに反響して、暖野は驚いた。それでも暖野は声を張り上げた。
「誰か、いませんか」
 しばらく待った。
 返事はない。
 窓口は3つ。その一つ一つを確認したが誰もいなかった。
 暖野はもう一度呼びかけたが、奥の事務スペースらしき所にも人がいそうな気配など微塵もなかった。
 どうやら、諦めるしかなさそうだった。
 ここで人を探そうとする試みを?
 いや、そうではない。全てについて。
 どうせ夢ならいつかは醒めるのだから、それを待つしかなかった。この状況はどう見ても夢だし、それ以外には考えられない。
 でも、こんなはっきりした夢なんて、あるのかしらね――
 だが、これを現実だと認めることには、もっと無理があった。
 暖野は2、3歩退がって路線図であろうものを見上げた。彼女の知る限り、切符売場の上にあるのは概ね路線図兼運賃表だからだ。
「嘘でしょ?」
 思わず言葉が漏れる。
 冗談じゃないわ――!
 路線図が読めなかったのである。
 暗すぎるとか字が小さいからというのではなく、そこに書かれた文字そのものもが読めなかったのだ。なぜなら、それは日本語で書かれたものではなかったからだ。もちろん英語でもなかったし、以前ルクソールで見せてもらったインドの文字でもなかった。アラビア語でさえ、読めないもののテレビなどで見たことはあるが、それでもなかった。
 どこの誰が、乗り慣れた循環バスで見も知らぬ外国へ連れて行かれるというのか。
 早く醒めてくれたらいいのに、こんな夢――
 夢なら驚きと同時に目が覚めるものだが、そのような兆しさえなかった。
 もう! なんてこと? 一体どうなってるのかしら――!
 それでも暖野は、読めもしない路線図を見つめ続けた。まるでそうすることによって、いつかは意味が判るとでもいうかのように。しかし意味こそ判らなかったが、暖野はあることに気づいた。
 似ている。
 暖野はポケットから懐中時計を取り出した。裏蓋を外し、そこに刻まれた文字を見る。
「やっぱりだわ……」
 路線図の文字と見比べて、暖野は呟いた。この2つは、間違いなく同じ種類の文字だった。だからといって彼女に読めるわけではなかったが、それでも少なくとも何かが判ったような気がした。
 暖野はしばらく路線図を見上げて立ち尽くしていた。
 だが字が読めない以上、現在地を特定することなどできはしない。そもそも、そんなことをして何になるだろう。ここが彼女の知っているどんな場所にも似ていないことは、すでに明らかなのに。
 夢の中で、自分の居場所を確かめようとするなんてね――
 暖野はひとり、苦笑した。
 出札口に背を向ける。無人のホールに、彼女の靴音だけが虚しく響く。
 ここにも誰もいない。さらには、列車が来ることさえなさそうだった。
 時計を見る。
 6時13分。
 この時間、まだこんなに明るかったっけ――
 鏡のような床を踏みしめながら、暖野は思った。
 本当に、誰もいないのだろうか……
 改札の向こう、幾つものホームが並ぶがらんどうの空間を暖野は見やった。
 売店もなく、乗客の荷物などもない、殺風景な空間が広がっている。かまぼこ型の屋根が構内を覆っていて、斜めの日差しがそれ以外の闇を際立たせていた。
 さながら廃墟のようだった。
 列車も来ないのに、ホームに行く必要はない。暖野は出口へと向かった。
 建物内の暗さに慣れていた目には、外の光は眩しかった。
 これ以上、ここにいる意味などないように思えた。
 駅前広場には相変わらず人影がない。噴水の水音が、耳に入る唯一の音だった。その水は夕照に映えて飴色に輝いていた。
 さっきは気づかなかったが、石段の上に立つと広場全体が見渡せた。いつも利用している駅と違って閑散としているせいか、やたらと広く見える。郊外のバスターミナルくらいのものだろうか。
 路面電車のものらしい線路が、噴水のある円い池を一周して街路の方へと伸びている。古風な街並みだった。建物は全て石造りで、高さはせいぜい三階しかない。派手な飾りもなく、どこかくすんで見えた。