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ひょっとこの面

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09.誘惑



 脱力感が体を支配していた。
 時間や金銭などを犠牲にして追いかけてきた新山は既にこの世の人ではなかったのだ。それは、とりもなおさず私の面業界への下克上計画も頓挫してしまったことを意味する。残された道は、私が所有している造り主のいなくなったひょっとこの面を、この世に送り出すのがせいぜいとなってしまった。
 帰りの電車の中で、私は打ちひしがれていた。このままいつまでも電車に乗り続けて、何もかもから逃避したい。そんな風にすら考えていた。

 宿泊先にたどり着き、部屋で独りになって考える。いったい新山を自殺へと駆り立てたのは何だろう。束彩は、新山の失踪は3月の中旬と言っている。新山の兄によると、自殺をしたのは3月の下旬ぐらい。つまり、束彩の前から姿を消した後、真っ直ぐに兄の家へ来て、帰ったらどうかと勧められ、すぐ自殺を決行したことになる。そして、兄はずっと何かに悩んでいたようだと言っていた。反対に、束彩は失踪の原因すら心当たりがないと言っている。
 束彩と新山の兄、二人の矛盾する証言の間にあるのは、新山自身が造り上げたひょっとこの面ではないだろうか。私はそっと、そのひょっとこを手に取ってしげしげと眺めてみる。だが、どんなに穴が開くほど見つめても、ひょっとこは何かを語りだすことはない。


「なぁに、考え込んでるんですか?」
気づくと束彩が背後に立っていた。どうやら部屋の鍵をかけ忘れていたらしい。
「気持ちはわかりますけど、元気出さないと。ねっ」
そう言って、束彩は私の首元に絡みつく。甘い香りが嫌でも昨晩のできごとを思い起こさせる。
 束彩も夫を失った身だ。泣き出したい所を、あえて気丈に振舞ってくれているのかもしれない。
「だが……」
私は心中に引っ掛かりを覚えていた。事後、束彩が発したあの背徳の欠片もない科白を、私は思い返す。
「ほら、こういうのとか、どうですか?」
気がつくと束彩は、亡き夫が作ったひょっとこの面を斜めにかぶり、上目遣いに私を見つめていた。小首を傾げて微笑むその様は、男心をくすぐるには十分過ぎる仕草だった。しかし、束彩がそのようにコケティッシュな誘惑をしてくればしてくるほど、私の脳内の疑念は膨らんでいく。
 私も共犯の身である以上、不倫をするなとは言わない。だが、束彩には屈託がなさ過ぎる。敢えてそれを心の奥底に隠しているとも思えない。割り切って開き直っているのとも違う。何か、狂的な匂いを放っている気がするのだ。
 だが、思考とは裏腹に、私の下半身は嬌態で体を寄せてくる束彩と、再び交わりたいという欲望がたぎり始めていた。局部は瞬く間に硬度を増し、形がわかるほど大きく聳え立ってしまう。
「ふふ。ガチガチになってますよ」
いつもの微笑みを顔に纏わりつかせ、束彩はズボンの上からさすりあげる。ビクビクと脈打つような心地よさの中、儚くも脳内の疑念は隅へと追いやられてしまう。束彩はさらに体を密着させ、局部をさすりながら唇を重ね合わせてくる。弾力性のある双球が押しつけられ、蕩けるような唇の快感に襲われる。唇を離した束彩は、私を見つめ、再び微笑んだ。

 そのときだった。初めて私が束彩に怒りを覚えたのは。

 お前の夫は死んだ。俺の人生ももう絶望的だ。お前はなぜ、ひょっとこをかぶってのうのうと微笑んでいられるんだ? 猛然と湧き上がってくる憤怒に突き動かされ、私は束彩をベッドに押し倒した。


作品名:ひょっとこの面 作家名:六色塔