星のラポール
5
実際、池までの道では誰にも出会わなかった。昨日まで雨が降っていたのか足元は少しぬかるんでいたし、そんな中わざわざ30分も歩いてまで、ぱっとしない池を見に来ようなどという者はいないのだろう。
だが、池の畔まで出た時、意外にも先客がいた。
「人がいるよ」
ノーチェが指さす。
俺達が来たことにも気づかないように、真っ直ぐに池の中ほどを見つめる女性。年のころは、俺と同じくらいか少し下。いや、ひょっとしたら上かも知れない。ある種不思議な雰囲気をまとった人だった。
「あ……」
その人が顔を上げる。
「すみません。びっくりさせてしまいましたか?」
俺は言う。
「いえ、今日は誰も来ないと思っていたもので」
「まあ、そうでしょうね」
俺は自分の靴を見下ろす。対してその女性は、山歩きには絶対に相応しくないヒールだった。
まさか、自殺?
緊張はノーチェにも伝わったらしい。「彼女、放心状態っぽいけど、大丈夫よ」
手を肩にやり、分かった旨伝える。
「フナデ、ちょっと気があるでしょ? 今なら陥とせるかもよ」
それは無視する。
「お邪魔なら、俺は戻りますけど」
「いえ、私も冷えてきたので」
そう言って、女性はおぼつかない足取りで森の道をキャンプ場へと消えた。
「お前な、どういうつもりだ?」
女性の姿が見えなくなってから、俺はノーチェを睨んだ。
「だって、フナデったら鼻の下伸ばしてたし」
「そんなもん、伸びるか」
「そぉお?」
元々小さいが、それ以上に下から舐めるような上目遣いをする。
「俺は、人の弱みに付け込むようなことはしたくない。きっと、何かあったんだろうとは思う。それを利用するような、ずるい男にはなりたくない」
「やっぱり、気があったんだ」
「違う。気があるとかないとか、そういう問題じゃない。お前、言ったよな。この星の知的生命体のオスは見境なくメスを口説くって。確かにそういう奴はいる。でも、俺は違う。利用するのと好きになるのは別だ」
「そうなの……」
さっきまでとは打って変わった寂しそうな声。
「女なら、誰でもいいってわけじゃない」
そう言って、ノーチェを肩から降ろす。「ここは、ゆっくりするにはいい場所だ」
「そうだね。うん、そうね」
ノーチェが岸に歩み寄る。彼女が透き通った水面に手を伸ばすのを、見るともなしに見る。
「冷たい!」
慌てて手を引っ込めるのが微笑ましい。
「そりゃ、山の水だからな」
「フナデの家のと全然違う!」
「当たり前だ」
「ああ、いい匂い」
ノーチェがすくい上げた水を落としながら言う。「ねえ、水浴びしていい?」
「おい、風邪ひくぞ。こんなに冷たいのに」
「平気よ。私ん所じゃ、それが普通なんだし」
お前、修行僧かよと呆れつつ、まあ、これだけ綺麗な水なら入ってみたくもなるだろうなと思う。その冷たさには相当の覚悟が必要だろうが。
「ちょっと、あっち向いてて」
「あ、ああ」
ややあって、水音が聞こえる。人が飛び込むような派手な音ではなく、ほんの微かな、水面を撫でるような音が。
「もういいよ」
岸辺には脱ぎ捨てられた服。彼女にしては先なのだろうが、俺からすればすぐ目の前に裸のノーチェがいた。もちろん首まで身を浸していたが。
「冷たくて気持ちいいよ。フナデも来たら?」
「馬鹿言え。風邪ひいちまう」
「ヒヨっ子」
「何とでも言え。俺が寝込んだら飯も食えなくなるんだぞ」
「あんた達の世界って、本当に窮屈ね。もっと自由でいいのに」
「出来れば、そうしたいがな」
「じゃあ、したらいいじゃん」
「そう簡単にはいかないのさ」
ノーチェは暢気に背泳ぎなどしている。人形のように整った胸が静かな水面を滑ってゆくのを、何とも表現し難い思いで眺める。
こいつが、普通の女だったらな……
俺は何を考えているんだか。だが、この思いは今に始まったことではないと気づかされる。たぶん、最初に会った時から。
俺は、こいつが好きなのか……?
そんな、馬鹿な。
あり得んだろ?
こいつ、抱きしめるどころか握り締めただけで潰れてしまいそうなんだぞ。気でも狂ったか。
そんな俺の思いなどお構いなしに、ノーチェは気持ち良さげに水際を行ったり来たりしている。
「どうしたの?」
彼女が訊く。
「ん?」
俺は不意を突かれたように彼女を見る。「ああ、よくそんな冷たい水の中で平気でいられるなって思ってさ」
「ふうん。なんか、怒ってるみたいだったから」
「怒ってなんかいないさ。どうして怒らなきゃいけないんだ?」
「怖い顔、してるよ」
「気にするな。お前のことじゃないから」
「ねえ、私のこと、そんなに心配?」
「まあな。弱ってるお前なんか見たくない」
「それだけ?」
「それだけって?」
「ううん」
ノーチェはかぶりを振った。「いいの。ごめんなさい」
「謝らなくていいさ。お前は何も悪いことしてないだろ」
「知らない間に、してるってこともあるよ」
「変に気を回すな。今日は楽しむために来てるんだ」
「うん、そうね」
「思いっ切り遊んでいいぞ」
「あはっ」
ノーチェが笑う。「ホントに?」
「もちろんだ。ぶっ倒れるまで遊べ。俺が責任取る」
あまりにも清らかな水には魚は棲まない。この池に彼女を襲うような魚などいないだろう。ある意味で水の中の方が安全かも知れなかった。
ふと目を横にやると、藁くずのような蔓のようなものが目に入った。
ふむ、こいつは使えるぞ。
「ノーチェ、こっちへ来い」
彼女を呼ぶ。
「何?」
「これ、端っこ掴めよ」
「どうして?」
「いいいからさ」
彼女は少し戸惑ったものの、胸を隠して蔓の端を握った。
「いいか、行くぞ!」
そのまま引き上げて振り子のように勢いをつける。
「きゃっ! 何すんのよ!」
「そら、手を離せ!」
「え、ええー?」
「ほら、行くぞ」
勢いをつける「今だ!」
手を放したノーチェがすっ飛んでいく。悲鳴と共に。
空き瓶を投げ込んだような水音。次いで抗議の声。「な、何だってのよ!」
俺は大笑いする。
「面白いだろ?」
「面白くなんかない!」
「でも、スリルあったろ?」
「ん、まあ」
「な?」
「もう一回」
「よし来た!」
俺は何度もノーチェにターザンごっこをさせてやった。蔓から手を放すたびに大仰に声を上げる彼女に何度も笑った。ノーチェも水面から顔を上げる度に大笑いした。二人して、いや、誰かと一緒にこんなにも笑ったのは初めてだった。
誰もいなくてよかった。もしこんなところを人に見られでもしたら、狂人だと思われること間違いなしだ。
「はー! 疲れたー!」
ノーチェが岸辺の草地に伸びる。
俺はさりげなく、ハンカチをかけてやる。
「ありがと」
「少しは恥じらえ」
「さっきまで平気だったくせに」
悪戯っぽい微笑。多分に、はにかみや恥じらいがないまぜになっている。
「私、あんな楽しいことやったの初めてだったから」
「そうか? 俺は子どもの時にやったことがある」
「だから?」
「ん?」
「フナデが面白かったから、私にもやらせたの?」
「やらせたって言うか……」
「悪い意味じゃなくて、フナデが楽しかったから、私にも同じように楽しませようと思ったのかってことよ」