大地は雨をうけとめる 第5章 幽霊屋敷
頭の隅で思った。いぶした煙を吸うと、思考力が低下し、眠くなる。月の花とも言われていた。昔から月の女神シリンデに捧げられる。妖艶な香りは嫌いではないが、今はなぜか不吉なもののように感じた。
……たりは……ら……があずかって……おる……
え?
「何か言った?」
ルシャデールは立ち止まり、パルシェムにたずねた。
「何も言わないよ」
ミナセ家の従僕たちの方を振り向くと、何も申しておりませんがと、一番年上の男が言った。
……わらわが……あずかっておる……
預かっている? 誰だ?
声はそれきり聞こえなかった。
「どうしたのさ?」パルシェムが不審な顔をしている。
「いや、何でもない」
意味のはっきりしないものは、うかつに口に出さない方がいい。辻占いをしていた頃、カズックに教えられた。もっとも、ユフェリから送られてくる知らせはいつだって曖昧だ。
「行こう」
ルシャデールはゆっくりと進む。あたりの気配を慎重に精査しながら。
馬のいななきが聞こえた。武術指南院が近い。ミナセ家の従僕に二人が来ているか聞いてくるよう頼んだ。
「朝から顔を見せていないそうです」
「やっぱり何かあったんだよ!」
パルシェムの甲高い声が頭に響いた。剣の稽古にも来ていないことに、ルシャデールは不安を感じた。
武術指南院の門を通り過ぎ、辻で立ち止まる。
右は違う。まっすぐだろう、たぶん。だが、左の道も気になる。大きな樹の枝が細い小路の上を渡って隣の屋敷の屋根の下まで伸びていた。
その木の下まで歩いていき、枝を見上げた。目に視えないものの気配がざわついている。そのはざまに、二筋の魂跡が残っていた。大枝を這うように渡って行くアニスの姿が頭に浮かんだ。アニスとヘゼナードが通ったに違いない。
何が起こったのかわからないが、最悪の事態になっていないことを祈った。取り乱さずにいられるのは、パルシェムのおかげだろう。彼のきいきい声は、むしろ彼女の心を鎮めた。
「あの屋敷のような気がする」
ルシャデールは四人のところに戻り、大樹のある屋敷を指差した。
「誰の屋敷?」
パルシェムに聞かれたが、彼女が知るはずもない。
「私の記憶に間違いなければ、あれは空き家と存じます」一番若い従僕が言った。「昔、人が殺められ、以来、住む者はおりません。幽霊屋敷との噂があり、よく若い者が度胸試しで忍び込んでいると聞きます」
彼の案内で門の方へ向かった。塀も門も手入れがされておらず、半ば崩れかかっていた。門番小屋も残っているのは土台だけだ。石やレンガは持ち去られたらしい。
玄関の方へ続く道は石畳になっていたが、隙間から草が生えている。屋敷の戸は開いているが薄暗い。
「気味悪い……」パルシェムが尻込みする。「誰か見てきてよ」
おまえは自分の侍従が心配じゃないのかと、怒鳴りつけたくなる。代わりに彼の腕をむんずとつかみ、引きずるように中へ入っていった。
「殴られたくなかったら、これ以上弱気なこと言うんじゃない!」
中は埃だらけで蜘蛛の巣もあちこちに張っていた。それを避けながら、一行は進む。
「足跡がございます」先頭を歩いていた侍従が振り返った。
「幽霊だ、きっと!」青い顔をしてパルシェムは叫ぶ。
ルシャデールは足跡を見つけた従僕を下がらせて、前に出る。
〈隠れてないで出ておいで。いるのはわかってるんだ〉
声に出さずに呼びかける。さっきから気配は感じていた。部屋の一つに入っていく。大広間だ。
白髪頭の老人が座っていた。
「でっ、出た、出た、うわあ……幽霊だあ!」
後ろでガタゴト音がしたのはパルシェムが腰を抜かしたらしい。それを追って遠ざかる足音がする。従僕が彼を連れて出て行ったようだ。でも、一人は残っている。気配から察するに、あの一番年配の従僕かもしれない。
白髪頭の老人を再び見やる。ひたいと眉間には深くしわが刻まれ、目には力がこもっている。
〈不法侵入の輩《やから》が出てこいとは無礼であろう〉
〈これは失礼いたしました。人がいるとは思っていなかったものですから〉
〈住む者がいて何の不思議がある。ここはわしの屋敷じゃ。招かぬ客をもてなすのは本意ではないが、茶ぐらいは出して進ぜよう。これ、誰かおらぬか!〉
どうやら老人は自分が死んでいることに気づいていないらしい。
〈ああ、どうぞおかまいなく。それより人を探しているのです。十四歳の少年二人、こちらへお伺いしておりませんか?〉
〈不法侵入の若い者なら幾人も来ておる。愚かで軽薄な馬鹿者ばかりじゃ。しかし……〉老人は陰険な笑みを浮かべた。〈わしは親切じゃからな。たいていはコルメスに頼んで丁重にお帰り願う〉
コルメス……コルメスの道! このじいさんは、道をつなぐことができるのか?
驚いて黙っていたら、老人はちらりと隣の部屋へ続く扉を見る。
〈もっとも、無事に帰り着いた者がいるかどうかは、わしの知ったことではないが〉
ルシャデールは最後まで聞いてなかった。隣の部屋へ突進した。壊れた扉の向こうに少年が二人、前のめりに床に倒れていた。
「アニス! ソワム! 誰か! パルシェム! 二人がいた!」
駆け寄って抱き起す。アニスは息がある。ソワムもだ。しかし、気を失っていて、揺さぶっても目を覚まさない。
「へゼナード、死んじゃいやだよう!」
おそるおそる入ってきたパルシェムが、ソワムに取りすがって泣いていた。「ヘゼ、目を開けてよう!」
声変わり前の甲高い声が耳に障る。
「死んでないよ、バカ」
ルシャデールは彼の尻を軽く蹴った。振り返った少年の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
「でも……」
「気を失っているだけだ」たぶん、とルシャデールは心の中でつけくわえた。
興奮した小童は捨て置いて、彼女は従僕たちに指示を出す。一人はアビュー家へ、もう一人はヌスティ家へ。起きたことを知らせに走らせた。一番年上の男が彼らとともに残った。
さっきの老人はもういなかったが、あざ笑うような気配はまだ残っている。何か悪さをするような印象はなかったので、放っておくことにした。
床に横たわった小侍従たちのそばには、背負い袋が落ちていた。二個……二人分だろう。ルシャデールはしゃがみこみ、その背負い袋を手に取る。
どこかへ行こうとしていた? でもどこへ?
「パルシェム、おまえの侍従はどこか行くつもりだったのかい?」
彼はまだ鼻をすすっていたが、少し落ち着いたようだ。
「知らないよ。ヘゼは一人でどこか行く時は、必ず僕にことわってから出かけた」
それはアニサードも同じだ。
見てはいけない気もしたが、ルシャデールはそっと背負い袋を開けた。着替えの服、火口箱《ほくちばこ》、手ぬぐい、薬入れ、干した果物が入った布袋、折りたたんだ羊皮紙は地図だ。
「東フェルガナの地図だ」
それを聞いて、パルシェムが顔を上げた。
「地図? もしかしたら……ペトラルへ行こうとしていたのかもしれない。前に住んでいた街だ」
「身内の者がいるのかい?」
「ヘゼの父親、僕にとっては叔父がいる。うちの両親が亡くなった後、僕もそこにいた」
「ふうん。ソワムは父親のところに帰ろうとしていたのか」
「たぶん。病気らしいんだ」
「誰が? ソワムの父親が?」
作品名:大地は雨をうけとめる 第5章 幽霊屋敷 作家名:十田純嘉