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大地は雨をうけとめる 第4章 逃亡計画

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「だいたいの家庭はそんなもんだろ」へゼナードは珍しくもなさそうに言った。「つまり、オリンジェはかわいい娘だけど、このまま付き合い続けると何もかも牛耳られそうだってことか?」
 アニスはコツンと石を蹴った。
「会うたびにたかられている気がする。ラピスラズリの腕輪とか、ネックレス、細い絹レースのついた肩掛けとか」
「高級品だな。でも、金がないわけじゃないだろ?」
「まだそんなにもらってないよ」
「あるならいいじゃないか」
「よくない。なんだか、穴のあいた桶に水を入れているような気がする」
「ぜいたくな悩みだな。かわいい子に好かれてるのに、それがうっとうしいなんて」
「ぜいたくでも何でも、どうやって彼女から逃れればいいんだ?」
「もったいない。でも、そうだな……愛想をつかされるようなことをすればいい」
「例えば?」
「博打にのめりこんで大枚の借金を背負い、神和家を追い出されるとか……女もいいかもな。あちこちの女を渡り歩いて瘡《かさ》(※)を患いました、ってのはどうだ? いや、だめだ。なんたって、トリスタン様は癒し手だからな。侍従の職務に耐え切れず、物狂いになるのはどうだ?」
 あきらかに面白がっている。
「へゼナード、僕は真面目に悩んでいるんだ」
「失踪……ってのはどうだ」
「へゼナード!」
 むっとして彼の方を見ると、彼は笑っていなかった。試すような目がアニスに向けられていた。
「……おまえさ、違うことやりたいとは思わないか?」
「違うこと?」
「このまま侍従じゃなくて、もっと普通の、多少貧乏でもさ、街の中で物を商ったりするような仕事なんかだよ」
 二人は西街道を横切り、ムスタハンとクズクシュ両地区に挟まれた隊商通りに入った。ここは別名、ラクダ通りとも呼ばれていた。船での交易がそれほど盛んでなかった昔は、
 この辺にたくさんの隊商宿があり、キュテフェルやラトベスから荷を積んだラクダが往来したという。今でも、かつてほどではないが、陸路の隊商はここに滞在する。
「あの生意気で我儘なチビの言うことばかり聞いて、この先何十年も過ごすのかと思うとゾッとするんだ」
「どうするつもりなんだ? どこか他の国でも行くのか?」  
 へゼナードはそれには答えず、絶対秘密だぞ、と口止めした。
 そう言われても、黙っていていいものなのか。そういえば春先、彼は挙動不審だった。その頃から用意を始めていたのかもしれない。
 アニスはアビュー家に来て六年になるが、屋敷を出ようなどと考えたことは一度もなかった。どういう形であれ、ここでずっと働いていく。そう思い込んでいた。もし、屋敷を出るとすれば、クビになる時だ。
 小侍従の逃亡はしばしば起こることだった。神和家の跡継ぎは養子ということもあってか、甘やかされることが多い。それに振り回される小侍従が耐え切れなくなる。
また、高い地位にある神和家は政争にも巻き込まれがちだ。侍従は家の存続が危うくなるような厄介事を避けるべく立ち回らねばならない。他人に話せないことも多い。侍従という立場は孤立しがちだった。他の使用人とは一線を画している。
 へゼナードがアニスに打ち明けたのは、同じ立場の者として多少なりとも、心を許しているからかもしれない。


 彼の計画はなかなか実行に移されなかった。
 その間も、アニスの周りは何もかもが変わりなく進行中だ。
 オリンジェとも会っている。
 この前はカベル川沿いを歩いていたら、突然聞かれた。
『また御寮様のことを考えているの?』
 話の種が尽きて、ちょっと考え込んでいた時だった。指摘された通り、考えていたのはルシャデールのことだった。違うよ、と言ってはみたものの、たいがいの女の子は勘がいい。
 別にやきもち焼いているわけじゃないの、とオリンジェは前置きして、
『でも、私と会っている時は、御寮様のことを考えるのはやめて』と、ふくれっつらを見せる。とがらせた唇が妙にかわいくて、目をそらせてしまう。
 その後で、彼女が市場の髪飾りを見に行った時、監視役の弟がぽつりと言った。無理しない方がいいよ、と。
『姉ちゃんはおっかねえからさ、やめといた方がいいよ。器量よしだってみんな言うけど、見かけだけだから』
 身内の遠慮ない言葉にアニスは苦笑いしてしまった。
『それにわりとしつこい性格だからさ、つかんだものはなかなか離さないんだ。下手すると、うちの父ちゃんみたいに尻に敷かれるよ』


 その日の稽古はさんざんだった。しかも、稽古をつけてくれたのがカルジュイク公アルセラームだ。武術指南院でも一、二を競う使い手だ。その長身から繰り出される鋭い剣さばきにはいつも圧倒される。いつも顔を合わせるわけではないが、会うと稽古をつけてくれる。 
「どうした、今日は気が入っていないな」
 剣は弧を描いてあさっての方へ飛んで行った。木剣を拾いに行く背中に追い打ちがかかる。
「実戦でそんなざまでは、命がいくつあっても足らんぞ。御寮人をお守りせねばならぬのだろう?」
「はい」
「仮仕えはいつからだ?」
「十一月からです」
「王の御前でそんな腑抜けた顔は禁物だぞ」
 三十になるかならないかというカルジュイク公もまた、アニスの父を知る一人だった。武術指南院に通い始めた七つ、八つの頃に、父やデナンに稽古をつけてもらったのだという。父を語る時にはいつも、敬愛のひびきがこもる。
「はい」
「神和家の侍従には、それ相応の心労苦悩があるのだろうが、剣を抜いたら一切の雑念を遮断せねばならん」
「はい……」うなだれたアニスはふと思いついて顔を上げた。「アルセラーム様」
「何だ?」
「逃げることは卑怯ですか?」
 カルジュイク公は灰色の瞳を興味深げに光らせる。
「武人の誇りや誉を一に置く者ならば、卑怯だと言うだろうな。だが、私は生き延びる方を選ぶ。生きて、王に仕える方がいい。だから、そのためには常に退路を頭に入れておく必要がある」
「退路……ですか」
「たとえば、この稽古場に四、五十人の敵が襲ってきたとしたら、おまえはどこから逃げる?」
 アニスは稽古場を見回した。大寺院の伽藍《がらん》ほど広いが、出入り口は三つだ。南側は外への玄関に通じている。東は院長の私邸に続く。西は屋外の稽古場だ。馬場や弓の稽古場がある。
「敵が南側から来たのなら、西の方でしょうか」
 カルジュイク公はにやっと笑う。
「上はどうだ?」
「上?」
 稽古場は二階屋はないし、階段もない。
 戸惑ったアニスに、カルジュイク公は北側の壁の隅にある戸を指し示した。木剣などの武具が置かれている部屋だ。
「奥にもう一つ部屋がある」
「はい、使われなくなった剣や弓がありました」
「本当にそれだけか? ソワムは気づいていたぞ。春ごろ、よく入って行っていた」
「え?」
「気持ちいいぞ。つまらぬ鬱屈など忘れてしまう」
 稽古をつけてもらった礼を言って、アニスは物置へと向かった。
 へゼナードが? 春先?
 武具庫の棚に使っていた木剣を置き、さらに奥へ進む。