大地は雨をうけとめる 第3章 パルシェムの幻視
いってえ……このクソばば、なんてことするんだ。頭がぶち割れる。
心の中で悪態をつく。
「舞の稽古を何と心得ているのですか?! ここは神へ奉納する舞を稽古する場。神の御前と言ってもいいのですぞ!」
ルシャデールは頭を押さえつつ、そっと顔を上げる。憤怒の形相がそこにあった。
「居眠りなど! わたくしが舞を教えるようになって、一度もありませんでした!」
では、私がお初をとりましたか。名誉なことでございます。
「トリスタン殿にも厳しくしつけるよう、お話しなければ! このような無礼な事、許されませぬ!」
サハビヤやバルクルが笑っている。モルメージの奏者三人も、笑いをこらえて顔がひきつっていた。
モルメージの音が、『脱《ぬ》け』を誘発してしまうことを説明しても、エディヴァリ婆さまには理解してもらえそうになかった。同じユフェレンとは言っても、能力にはかなり差がある。
トリスタンなどは癒しの技に限定されているし、同様にエディヴァリ婆さまは予見が主業だ。二人とも意図的にユフェリを訪れることはできない。
ルシャデールの場合は、ユフェリとのつながりが強すぎて、モルメージの音で向こうに引っ張られてしまう。むしろ、こちらの世界に居続けることの方が努力を必要とする。
「御無礼いたしました」
ルシャデールは神妙に頭を下げた。アビュー家に来たばかりの頃なら、『何しやがる、このクソババア!』ぐらいは叫んで、飛びかかっただろう。今はさすがにそんなことはしない。アニスにも何度か言われたのだ。
『怒っている相手に怒りを投げ返すのは、火に油をそそぐようなものです。賢い者がやることではありません。頭を下げ、嵐をやりすごすのが一番です』
しかし、嵐がなかなか過ぎ去らねば、こっちの我慢も限界に近づく。
「だいたい、そなたは心根がたるんでいるのです! 」
この分なら養父トリスタンに文を書くかもしれない。将来神和師となる者にあるまじき不作法な態度、言語道断! 厳しくご指導されたし、とか何とか。
それをトリスタンは『うん、あの婆さまもお元気でいらっしゃる、いいことだな』で、終わらせるだろう。
それを想像して、不謹慎にも笑い出しそうになってしまう。
「何がおかしいのですか!」
まずい、と思った時、バルクルがエディヴァリを呼んだ。
「パルシェム殿が!」
見れば、稽古を中断されたパルシェムが立ったまま、全身を震わせていた。顔は恐怖にこわばり、目の前の虚空を見つめている。
ユフェレンにはしばしばあることだった。深い瞑想の時と同じ状態だ。半ば覚醒した状態でユフェリへ入ってしまったらしい。モルメージの音に誘導されたのだろう。
パルシェムが失神して頭を打たないように、バルクルはゆっくりと彼を座らせ、それから床に寝かせた。
パルシェムは目を見開いたままだったが、急にからだをけいれんさせ、気を失った。彼の小さな体の周りには、エディヴァリ、バルクルの他、稽古場にいた全員が集まっていた。
「ユフェリに入ってしまったのではありませんか?」
年長者に遠慮したのか、バルクルが控えめに言った。エディヴァリはパルシェムを見つめ考え込んでいる。少し様子を見るか、他家の神和師を呼ぶか、思案しているようだ。
「お許しを頂ければ、わたくしが見て参りましょうか?」
ルシャデールはエディヴァリに申し出た。
エディヴァリは彼女を推し量るようにじっと見つめた。さきほどまでの怒りはすでに去っていた。
「いいでしょう、しかし、深追いしてはなりません。手に負えないと思ったらすぐに戻りなさい」
許可を得てルシャデールは速やかに体を離れる。周りの景色が薄れ、闇に閉ざされた。
怖れる必要はない。もう何十回、いや何百回とユフェリには来ている。探すのは難しくないだろう。パルシェムのことに意識を集中させればいいだけだ。
闇がほんの少し明るくなる。明るいと言っても、日没から四半時たった頃ぐらいの暗さだ。山の黒い稜線が見える。足元はよく見えない。固くて……乾いているようだ。
だが、ユフェリのどこにいるのかわからない。
「パルシェム!」
四方を見回す。近くにいるはずだ。しばらくすると暗さに慣れてきて、小さな姿が走って行くのが目に入った。
「パルシェム!」
追いついて服をつかむ。彼はきっ、と振り向いた。
「離せ、ガマガエル!」
「いいから、戻るよ!」
「離せ! へゼナードが行ってしまう!」
え? と思ったら、パルシェムは彼女の手を振りきって、また走り出した。追いかけているうちに、ルシャデールにも見えた。パルシェムの前を行くへゼナード・ソワム。
街の水売りのように、大きな真鍮《しんちゅう》製の水つぼを背負い、縁なしの帽子をかぶっている。そばに黒っぽい犬が付き添っていた。
「へゼナード! 待ってよ、行かないでよ!」
何がどうなっているのか、よくわからないが、パルシェムと共に走って行く。だが、歩くへゼナードにいつまでたっても追いつけない。
「あっ!」
パルシェムが転んだ。大きな水たまりに足をとられたのだ。
「あーあ、何やってるのさ」
そう言いつつも、ルシャデールは起こしてやる。
いつの間にか三日月が出ていた。おぼろな光に門のように並んだ二つの塔が黒々とそびえている。陰鬱な、不安をかきたてる光景だった。彼女は記憶をたぐりよせる。
八歳ぐらいだったろうか。まだカームニルで辻占いをしていた頃だ。ユフェリについていろいろ教えてくれていたカズックの話を思い出す。
『囚われの野にいるのは、ほとんどが死者の魂だ。しかし、少数だが、生きている者もいる。愚者の道と呼ばれる、小さな道を行くと塔門に出る。そこから先が、シリンデの領域だ。生きながらにして死した者が集う場所で、低級なユフェレンもよくいるぞ』
『生きながらにして死した者』というのは、どういう人間のことを言っていたのか。その時は、汚い小路の隅に横たわっているような浮浪者みたいなもののことかと思っていたのだが。
パルシェムは起き上がると、再び塔門の方へ行こうとした。
「待ちなよ」
「うるさい、離せ」
「戻った方がいい。ユフェリで見るものは、今起きていることとは限らない。遠い昔のこともあれば、何十年も先に起こる事かもしれない」
今起きているとは限らない。
その言葉に、パルシェムは動きを止めて、ルシャデールの方を見た。迷っているのか何も言わず、それでいて不満そうだ。
「向こうのソワムの様子を確認してからの方がいい」
塔門の道に、へゼナードの姿はもう見えなかった。
「わかった」しぶしぶパルシェムは答えた。
気がつくと、ミナセ家の控えの間でソファに寝かされていた。
「お気がつかれましたか」
そばにアニスがいた。
起きようとして、力が入らず、ふたたびクッションに頭をつける。
「パルシェムは?」
「つい先ほどお帰りになりました。ソワムと私が参りました時は、お気がつかれた直後だったらしく、ひどく興奮されておいででしたが、ソワムの顔を見て落ち着かれたようです」
「そうか……」
やっぱり今のことではなかった。とすると、未来に起こることなのか? あの黒い犬は何を意味しているのか……。
作品名:大地は雨をうけとめる 第3章 パルシェムの幻視 作家名:十田純嘉