大地は雨をうけとめる 第3章 パルシェムの幻視
人の気配に戸口の方に、顔を向けると、エディヴァリ・ミナセだった。
「かげんはいかがですか?」
今度こそ、気力を出して起き上がる。
「パルシェムは話ができる状態ではありませんでした。ユフェリへ入って、何があったのですか?」
ルシャデールはシリンデの領域にへゼナードが入って行き、パルシェムが追っていたことを話した。
「予見かもしれません。それが何を意味するのか、慎重に判断せねばなりません。輿《こし》を用意させました。今日はそれに乗ってお帰りなさい」
えっ。小さく声を上げる。結構です、と言う前にアニスが割って入った。
「お心遣い感謝いたします。ありがたく使わせていただきます」
普通、裕福な家の女性ならば外出には輿を使う。レセン家のサハビヤも稽古に来る時は自家の輿に乗ってくる。歩くのは下賤の者がすることと考えられていた。
しかし、ルシャデールは輿に乗るのを嫌った。稽古に通い始めた時、そのことでアニスとちょっとした口論になったのだ。
『仮にも、神和家の跡継ぎというお方が、徒歩でなどとんでもないことです』
『まっぴら御免だ。輿に乗るのは葬式の時だけでいい』
『なりません』
『トリスタンみたいに馬に乗るならまだいい』
『女性が馬に乗るなど、とんでもない! そんなはしたないことは認められません』
『じゃあ歩く』
『……ロバはどうですか? いささか品がありませんが、田舎ではよく農婦が横座りで乗っています』
『ロバに乗るなら歩いたほうが早い』
結局、アニスが折れて、徒歩での通いになった。彼はその後でデナンに叱責されたと聞く。主人を社会常識にうまく沿うようにするのも侍従の務め、ということだ。
さすがにミナセ家の輿かつぎは、揺らさないように担ぐことに長けているようだ。なめらかに進んで行く。
そんなに悪いもんじゃないな。
嫌いだったのは、道行く者に蔑みのまなざしを向ける貴婦人たちだったかもしれない。
しかし、輿に乗っていたら、街でアニスとジュースを飲んだりはできなかっただろう。
(でも、これからはそんなことは無しだ。ちゃんと、アビュー家の跡継ぎらしく振る舞わないといけない)
先ほどのパルシェムを思い出す。ルシャデールよりも年下とはいえ、やけに侍従にべったりのように見える。口は生意気だが、いつも不安そうに目がきょろきょろしていた。
エディヴァリにもしばしば落ち着きがない、もっと舞に集中しろと、注意される。
(神和家の跡継ぎなんて、もともとロクな者じゃない。みんな根無し草みたいなもんだ)
根無し草が肥えた土地に移植された心もとなさ。ルシャデールにも覚えがある居心地の悪さを、パルシェムも味わっているのかもしれなかった。
アビュー家に着くと、アニスは輿担ぎの男たちに心付けを渡して返した。
「アニサード」
「はい」
「明日から輿で稽古に通う」
彼の視線が彼女に向く。そのまなざしをよぎるのは何なのか。よくわからない。だが、それはすぐに引っ込み、侍従の微笑みにとってかわる。
「それは、ようございました。当家の担ぎ手たちは雇われてこのかた、ずっと仕事にあぶれておりましたから」
そうだった。アビュー家では三年前に担ぎ手六人を雇い入れたのだ。ルシャデールだけのために。だが、輿は使われず、彼らは厩や庭の仕事をしていた。といって、簡単にクビにするわけにもいかず、執事は悩んでいたらしい。
「では、明日からそのようにいたします」
ルシャデールはうなずいた。
へゼナード・ソワムはその後も特に変わりはなかった。
あの幻視のことも、さほど重大には考えていないらしい。
『まるで他人事です』とアニスは言っていた。
普通の人間はユフェリから送られる『知らせ』を必要以上に恐れるか、取るに足らないものとみなしてしまうか、二種類に分かれる。ソワムは後者らしい。
あの幻視はパルシェムだけでなくルシャデールも見ている。一緒にいた黒い犬は何だったのか。へゼナードはどこへ行こうとしていたのか。
だが、六月のドルメテ祭が近づくうちに、そのことは二の次、三の次になっていった。ドルメテは神和師にとって大きな祭事であり、ルシャデールやアニスもその手伝いに駆り出される。
それが終わった時には、もうすっかり彼女もその件は忘れてしまった。
作品名:大地は雨をうけとめる 第3章 パルシェムの幻視 作家名:十田純嘉