大地は雨をうけとめる 第3章 パルシェムの幻視
アビュー家に来た当初は、本当の親子のようになれるとは思わなかった。しかし、トリスタンが今、寄せてくれるのは血のつながり以上に貴いものだ。
彼はわかっている。ルシャデールが神和師になりたくないと思っていることや、普通の娘のように暮らしたいと望んでいることを。
トリスタンだって、本当は癒し手として跡を継いで欲しいと思っている。できるならそれに応えたい。でも……。
「……ありがとう」
それ以上、何と言えばいいのか。ルシャデールは黙り込むしかなかった。
「しっかりと顔を上げて! もっと速く!」
エディヴァリ・ミナセの声が飛ぶ。
ルシャデールは頭を上げて、エディヴァリと、稽古をつけられているパルシェムを見た。小憎らしい小童も、エディヴァリのまえでは神妙だ。か細い手足を必死に振り回している。
この日は他にレセン家のサハビヤとエニティ家のバルクルが来ていた。
サハビヤはルシャデールより年上だが、レセン家に養女に入ったのが一昨年。どんな家の生まれかわからないが、今の身分にまだ慣れないのか、どこかおどおどしている。
神和家より兵隊の方が似合いそうなのはバルクル・エニティだ。あごのひげの剃り跡が青々しく、ユフェレンにしては無骨で男っぽい。陽気な性格だが、立ち居振る舞いが雑で、二十歳過ぎてもまだ奉納舞の稽古に通っていた。
打楽器モルメージの低い音が静かな舞楽堂に響く。
今、パルシェムが教わっているのは、ルサイム・デーレと呼ばれる旋舞だ。モルメージの音の中で、くるくると回る。
数多い奉納舞の中で神和師が舞うのは、かなり大きい祭事や儀式のものに限られている。斎宮院の巫女たちには、日常的に奉納される舞が伝えられているが、月の女神シリンデへの信仰が盛んだった頃と比べると、忘れ去られたものも多いらしい。
ルサイム・デーレは宣託を受けるための舞だった。伴奏のモルメージの音により、ユフェリのさらに奥、シリンデのまします世界へ意識をつなげる。重低音の単調な音だが、耳に障る。聞いているだけで、ルシャデールは体から脱けてしまいそうだ。時と場所をわきまえないわけではないが、こちらの世界にとどまる方が難しい。
意識が広がってゆく。エディヴァリの声が遠くなり、舞楽堂の景色が薄れていく。気づいた時には天井近くから下を見下ろしていた。ルシャデールの体は、板の間に座ったままだ。
彼女の意識はするりと天井を抜けた。ミナセ屋敷の外が見える。門番が農夫と笑いながら何かしゃべっている。さらに彼女は上昇し、ピスカージェンの街の上空に出た。
何度も経験していることだが、鷹になったような爽快感はいつ味わってもいい。
と思っていたら、ユフェリの野にいた。
白い灯台がそびえる周りには、シロツメクサの野原が広がる。風が柔らかにそよいでいた。草があまり生えていない空地に、テーブルが一つ、そして女性が一人椅子に座って、ルシャデールに向かって手を振った。
「こんにちは」
ルシャデールは笑いかけた。エルメイ・イスファハン。七年前に亡くなったアニスの母だ。彼女も笑みを返す。
「こんにちは、久しぶりね」
ルシャデールがアニスの母に会うのは二回目だ。最初はアニスをユフェリに連れて来た時に『庭』で会っている。もっとも、その時はほとんど話はしていない。
テーブルの上にはピカピカのサモワールと、小さな土鍋があった。茶色っぽいおかゆのようなものが入っている。
「食べる?」
「何ですか、それ?」
「稗《ひえ》と蕎麦《そば》の実のおかゆよ」
食べてみると、確かにおいしいとは言い難い。彼女とて昔はロクな暮らしをしていなかったから、好き嫌いはないのだが。
「カームニルでは蕎麦の実は食べないらしいから、お口に合わなかったかしらね」苦笑いするルシャデールに、エルメイは屈託なく微笑んだ。「ネズルカヤの山の中では、小麦はあまりとれなくて。蕎麦の実はまだごちそうの方よ。いつもは稗や粟《あわ》ばかり。それでもアニスはおいしいと言ってくれたけど。あの子、おつきあいしている女の子がいるんですって?」
「はい」
ユフェリは時間もなく距離もない世界だ。個々の意識が創りだすものだけが現れる。肉体を持って生きている者の世界(ユフェリに対してカデリと呼ばれている)も、たやすくのぞき見ることができた。肉眼ではなく意識の目で見るからだ。
家族の中で一人生き残ってしまった息子のことを、エルメイはいつも見守っているのだろう。アニスとその周囲で起きていることはあらかた知っているようだ。
「あの子がどうしてそんなにもてるかしらね。鈍いし、とんちんかんなのに。もっとも、たいがいの男はそうだけど」
彼女は自分の息子をあっけらかんと評する。
「知ってる? あの子意外としつこいところがあるわよ」
「しつこい……ですか?」
ルシャデールが知っているアニスは、何かに固執することなく、周囲の人や物事にうまく均衡をとって対処している。
「四歳の時に会っているんでしょ? 栃《とち》の実の女の子。あなただったのね」
衣装箱の中で寝ていたルシャデールが目覚めた時、どういうわけか山の中の草の上にいた。その頃すでに何度も怪異に出会っていたから、彼女はそれほど慌てもしなかった。ここはどこかと思ってあたりを見回すと、木の枝を拾う男の子が現れた。アニスだった。
友達になってと言われ、栃の実を一緒に取る約束をして別れた。
ルシャデールは夢だと思っていた。もとの場所に戻って、よくわからないまま眠って、次に目が覚めた時は衣装箱の中だった。服に枯葉がついていなかったら、彼女はそのまま夢だと思って忘れたに違いない。
それが『コルメスの道』と呼ばれる現象だと知ったのはもっと後のことだ。
「あの時、アニスは楽しそうに話してくれたわ。栃の実をとる約束をしたって。でも、次の日、村のどこを探してもそんな女の子はいなかった。あの子は……本当に村中を探したのよ。それに山の中も。もしかしたら、崖からでも落ちてケガして泣いているんじゃないかって。家の仕事や畑の手伝いも放って探しに行くようになって、イズニードにこっぴどく叱られて、それからはあきらめたようだったけど。でも、三年ぐらいたっても、まだ時々言ってたわよ。あの子どこ行ったんだろうって」
最後には、山の妖精だったんだろうってことに落ち着いたのよ、エルメイはそう言って笑った。
「でも、アビュー家で会った時には、すっかり忘れていたようでした」
「私たちが土砂崩れで死んでしまったことが、あまりにも大きかったのよ」
そうだった。ルシャデールは四年前を思い出す。アニスは声にならない悲鳴を常に発していた。見た目には明るくほがらかだったが。
「その付き合っている女の子とはよく会っているの?」
「よくわかりません。仕事もありますから、そうひんぱんには会えないと思いますが」
「その程度なら大丈夫よ。仕事を放り出して会いに行くのでなければね。あら、呼ばれているわよ」
え? と思った瞬間、大音声に包まれた。
「ルシャデール・アビュー! 稽古中に居眠りとは何事ですか!」
それとともに脳天に衝撃を受けた。
扇を投げつけられたらしい。扇骨は木だが、まともに当たると相当痛い。
作品名:大地は雨をうけとめる 第3章 パルシェムの幻視 作家名:十田純嘉