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大地は雨をうけとめる 第3章 パルシェムの幻視

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「午後からの予定は?」
 部屋の鏡を割った翌日、昼食を終えたルシャデールに、トリスタンはたずねた。
「特にない」
「それじゃ、一緒にカプルジャさんのところへ行こう」
「カプルジャさんって、壁道沿いの?」
「うん、胃に悪いできものができて、ずっと伏せっている。君の意見を聞きたいと思ってね」
「あまり役に立たないと思うけど」
 一昨年から治癒の術《わざ》をトリスタンから教わっているが、あまりうまくいっていなかった。『気』をうまく操ることができず、苦労している。おとといは施療所で、ねん挫で訪れた石工を悶絶させてしまった。それ以来、患者たちはルシャデールの治療を怖れている。
「ご謙遜を。君は視えるじゃないか」
 あ、そういうことか。ルシャデールは納得する。確かに、どこが悪いか、悪くなるか、わかる。
「わかった、行く」
 近所だからか、トリスタンは侍従も従僕も連れなかった。父娘二人だけの外出は初めてだ。養父を独り占めしているようで、知らず知らずのうちにルシャデールの顔に笑みがこぼれてくる。
 近隣の農夫や女たちが、二人に軽く頭を下げて行き過ぎる。
 北の丘陵地帯には放牧された羊が点々と草を食《は》んでいた。牧童がロバのそばにすわりこみ、昼食だろうか、堅そうなチーズを食べている。
 カプルジャの家は、この丘陵地帯にあった。日干しレンガを泥で接着して積んだだけの、粗末で小さな家だ。横には物置小屋と石積みの囲いがあった。夜の間、羊を入れておくのだろう。
「まあ、これは御寮様まで」
 カプルジャの息子の嫁アイサが二人を出迎えた。
 スカートの影から二、三才の女の子が顔をのぞかせている。母親と同じようにスカーフをかぶり、くりっとした目があどけない。
 家の中は薄暗かった。床は三和土《たたき》の上に絨毯を敷いただけだ。隅に小さなかまどが設けられ、レンガの台にナベや食器が置かれていた。ここが居間なのだろう。
 板敷になった奥の部屋に病人が寝ていた。
「これは御前様、いつも申し訳ねえです」
 カプルジャは起き上がろうとした。それをとどめて、トリスタンはそばに寄る。
「今日は少し顔色がいいようだね」
 だが、ルシャデールにはそれほどよくは見えなかった。それに……彼の体を黒い影が包んでいるのが視える。
 黒い影。
 これまでにもたびたび視たことがある。街行く人の中に。アビュー家の施療所を訪れる人の中に。その影に包まれた人間に死期が近づいていることも、経験上わかっている。最初は母だったろうか。自殺する数日前に、黒い影は現れた。
 この人はそう遠くないうちに死ぬんだ。行く先は浄福の地ユフェリだから、何も心配することはない。
 とは思うものの、そんなあっさりと割り切れないものが残る……。


 帰り道、カプルジャの家を少し離れてから、トリスタンが聞いてきた。
「君が見てどう思った?」
「長くはないと思う。もって三、四カ月ってところかな。それを私に見てほしかったの?」
「うん、手かざしで『気』を送っても、穴の開いた桶に水を入れているような感じがした。もし、助からないのであれば、できるだけ苦しみを減らすことを考えた方がいいと思ってね」
 そういえば、カプルジャもそんなことを言っていたな、とルシャデールは思い返す。
 こんな老いぼれ、どのみち長くはねえんです、早く楽にしてくだせえ、と。
「アルスケスを処方しようかと思うんだ」
 アルスケスは岩ケシの花からとる鎮痛剤だ。量を間違えると中毒になってしまうため、滅多なことでは使わない。
「あれの処方は人任せにしたくないんだ。劇薬だからね。しかし、わたしには神和師の務めもある。だから、君に頼むことも出てくると思う」
 ルシャデールはうなずいた。
「本当は、できるなら神和師なんてことも辞めてしまいたいんだ。できるなら、癒し手としての仕事に専念したい」
 え? ルシャデールは驚いて養父を見た。施療所での治療はかなり熱心にやっているが、神和師を辞めてもいいほどだとは思っていなかった。
「意外かい? でも、辞めてしまうと荘園からの収入がなくなる。うちに来る病人のためにも、あの収入は魅力的なんだ。遠方から薬草を買い付けるには、多額の金が必要だ。跡継ぎ娘に鏡を買ってやるためだけでなくね」
 ルシャデールはうつむいた。昨日、苛立つ想いに耐えかねて、鏡を割ってしまったのは、みっともないことだったと思う。
 どうしてあんなことをしでかしたのか。そうだラフィアムの歌だった……。
 アニスがなぜラフィアムの歌を注文したのか。楽師として名高い彼の歌が一般的によく知られているし、ユフェリを訪れたときに彼に会ったということもあるだろう。
ルシャデールには、彼がオリンジェのことを考えているように思えた。だが、会いたいのかと聞いた後の『誰にですか』は、オリンジェのことを想っていたようには見えない。
 いや、アニスだって侍従の端くれだから、感情を表に現さない術《すべ》を身に着けてきているのかもしれない。
 屋敷に戻って来て、鏡が目に入った。つかの間、彼女が見たのは、神和師の跡継ぎではない娘だった。赤いチェックのスカート、刺繍の入った晴れ着のチュニックに絹のショールはクリーム色。枯草色の髪にはリボンを絡め、唇に薄い紅をさしたやせぎすの少女ははにかみながら微笑っている。
 その幻はすぐに消えた。だが、その残像はルシャデールの脳裏に焼き付き、彼女の心を掻き裂いた。手じかにあった壺を鏡の中の自分に投げつけたのは、その直後のことだった。ガラスのかけらが飛び散る。
 その音にソニヤや従僕が二、三人、駆けつけてきた。何か言っていたが、ルシャデールの耳には入ってこなかった。終わりにしなければ、と思った。
 子供の時の、とるに足らない友達の約束なんか、もう終わりだ、と。
 夜、みじめで切なくて眠れずにいたら、カズックが来た。アニスに慰めてやってくれと、頼まれたらしい。カズックの体から移り香が匂い、思わず犬を抱きしめた。バカだな、とカズックには言われた。結局、ゆうべは全然眠れなかった
「……ごめんなさい」
「執事が頭を抱えていたよ。ま、彼の一年分の給金に値するからね」
「えっ!」そんなに高値《こうじき》とは思わなかった。
「誰だって気分や感情のむらはあるさ。それをうまくあやしながら、みんな日々を送っている。まして君はアビュー家の次期当主だ。わたしの言いたいことはわかるね?」
「はい」
 自分の言動は使用人にも影響を与える。散らばった鏡のかけらは彼らがきれいにしてくれた。女主人が裸足で歩いてもケガをしないよう、ほんの小さなかけらも残すまいと、床に這いつくばり、反射する光に目をこらして。
「でも私は」トリスタンは歩みを止めて、彼女の方を振り向いた。「アビュー家より、自分の幸せを大事にしてほしいとも、思っている。私は君を跡継ぎに選んだが、それを受けるかどうかという選択は常に君のものだ」
 アビュー屋敷が見えてきた。トリスタンは少し声を落とした。
「もし……誰かと逐電したいと思ったら、前もって相談してくれると嬉しいな。たぶん、協力してやれると思うから」
 彼の眼にはいつものいたずらな輝きと共に、深い情愛が宿っていた。