和ごよみ短編集
《其の4》『いずる』
「ちょっと天井 湿ってきてるんですけど」
陽の光が照らすガラス窓から 外を眺めていると、けたたましく玄関の扉を叩きながら声がした。
窓の外で ゆるゆるとした風に吹かれた洗濯物が のんびりした気持ちと同調して、まったりした時間を過ごしていたのに、遮るように声とどんどんと叩く音が邪魔をした。
誰? チャイムだってついているのにと思いつつ、この扉の叩き方の勢いで チャイムを連打されないことに 少しばかりほっとしていた。
「どなたですかぁ?」
わたしは、部屋の中ほどまで歩みながら、それ以上は 何かしら近寄りがたい雰囲気に足を止め、玄関に向かって やや大きめに声を掛けた。
「だからそのぉ ちょっと天井! 湿って…って 此処開けて」
聞こえなかったのかと、もう少し大きな声で叫んだ。
「どなたですかぁ?」
「下の、お宅の下の階の者です」
わたしは、此処の住人かと肩を下したが、はたっと緊張した。
下? 下ってどんな人だっけ? 男? 何なの? ずっと見たことがない。
いつも道路側のカーテンは閉められていて、ベランダの一本通してある物干し竿に洗濯物を見たことがない。玄関からの出入りなんてみたこともなければ、ドアの開閉の音すら聞いたことがなかった。
築年からしても 近代的な住宅のように 静かな開閉ができるわけないでしょってくらいで わたしが出かけるときなんて 住宅全戸に知れわたりそうなぼっちゃい作りの建物。
わたしは、その人物を確認すべく、そろりそろぉりと玄関に近づく。
もはや居留守は使えない。ドアスコープを覗き見たが、まるっきり任務を果たさないしろもの。扉からそっと離れようとしたとき、もう一打のどん!
ドラマで観た壁どんならぬ、壁越しどん。小さな胸元に衝撃波がどん! びっくりして玄関口に尻もちどん! なんなのよぉ! 文句なら受けて立つわ、と勢いよく開けた扉が相手の鼻っ面にどん……しなくて良かったぁ。
「こんにちは。突然押しかけてすみません。あの、お宅水漏れしていませんか?」
「はぁ……」
わたしの怒りは、何処其処へ? わたしの前に立つおかたは……。
「いえ、キッチンも 風呂も 水は使ってませんけど、さっき洗濯もしましたが…」
わたしは、後ろを振り返り 異常のなさそうな部屋を確認すると「大丈夫みたいですけど」と なんと優しい口調で話しているのです。