和ごよみ短編集
辿り着いた小さな美術館。
閉館が早い分、開館が早い。こんな早朝に出かけてきたにもかかわらず、待たずに入館できるのはありがたい。入り口付近に目についたのは、落款印は押されているが誰のモノなのかわからない書の掛け軸。
(あ、これが先生が言っていた館長の趣味の書だな)
そう思って見ると 芸術的にも見えるし、書き殴った悪戯書きにも見える。趣を感じるかどうかは 好き嫌いなのかもしれないと思った。
好みを外して一応墨で書かれた文字を読んでみた。
《露凝んで霜とならんとするゆゑ、寒露と名づく》
「ろ? つゆこんでしもとならん…… ん?」
「この月寒冷次第につのり、つゆむすんでしもとならんとするゆえ、かんろとなづく」
「はあ…… あ、おはようございます」
この白髭を中途半端に伸ばした紳士らしき爺さんが おそらく此処の館長でこの書の作者だろうと思った。
「歳時記の季節のことばを 時々に合わせて書いているのですがね。読めませんか?」
「いえ、僕が……」
「はははっ。いいんですよ。こうして本物の美術品と掛けておけば値も出るだろうかと」
「素晴らしい字ですよ。書です」
「いやいや、ありがとう。今朝は冷えたから何処かでそろそろ見られたかもしれませんな」
僕は、今朝見た光景を館長に話をすると、彼は目じりを下げ皺の多い口元を緩めた。
結局、僕が館内をひとまわりする間には 僕のほかに誰も立ち寄ってはいなかったようだ。
帰りに館長の手作り葉書きを来館記念にと頂戴した。館長が、趣味で撮ってた写真を絵はがき風にしてあるものだった。これも書に合わせて季節ごとに作っているそうだ。
帰りの電車の中で取り出し眺めてみる。今朝見た風景が思い出される。それをカメラに収めたかのような写真だった。
露が霜となり、白色と覗かせる葉の緑色。冷たいのに暖かく見える。
彼女の喩えた『白いベルベット』という言葉が温かく感じさせるのかもしれない。
また会えるだろうか?
明日? そうだ、犬の散歩ならば、きっと明日もあの道を通るはずだ。
僕は急に自身の鼓動を感じた。冷たく閉ざされた中で脈々と息ずく生命の力に負けないように 勇気を出して声を掛けてみよう。僕にも訪れるかもしれない春を信じて。
しんしんと 想い深めて……
― 了 ―