和ごよみ短編集
《其の26》『かわる』
僕はその日 隣町にある私設の小さな美術館を訪れた。
何という事はない気まぐれに取ったゼミの教授が、講義の終わり頃にぼそっと話したことをルーズリーフの紙に走り書きをした。数日経って、部屋の机の上に広がったファイルのページがそれだった。授業の内容がほとんど書かれていないので そのまま外して捨てようと思った。
授業もない。早朝のバイトも急にキャンセルの連絡が入っていた。
早目に起床したとはいえ、せっかくの休みだ、二度寝も勿体ない。
(講義の代わりに書いたことだし、暇してるからなぁ。行ってみるか)
僕は出かける気になり、着替えようとチェストの上に積み上げられた服の中から引っぱり出した。ここ数日で朝の気温は肌寒く感じられ、チェストの中に片付けられた夏の衣類との入れ替えをしないまま、クローゼットの箱から出した衣服をチェストの上に積み上げてあった。それでも 未だ昼間は暑い。たいして持っていない衣類だったが、美術館に似つかわしいかは 正直わからないが ちょっとはそれらしく見えるよう半袖のポロシャツを着こみ、綿パンを穿き、薄手の長袖のジャケットを羽織った。
しまった。衣類は気にしつつも足元を見れば、履きなれた靴はやや踵がすり減っていたし、艶もくすんでいた。最高のお洒落ではないものの、それなりの洒落っ気すら欠いてしまったかもしれない。これが、好きな彼女とのお出かけでなかったことは幸いだ。
その前に、身なりを気にできるような彼女がいることが前提かもしれない。
(気にするな)
自身を叱咤激励するように外へと一歩出た。
たいして寒くはない。外の空気に一瞬はそう感じた。
部屋のドアに鍵を掛け、通りに出て肩をすぼめた。
街路樹が葉を揺らしたのと同時くらいだったか。
(正解!)
ジャケットを羽織ったことに満足した。
秋空は晴れていて 遠い空の裾の辺りに微かに煙のような雲が見えるくらいだ。澄みわたった空気と表現してなお透き通るような無臭無色の空間の中に 僕のクローゼットから出しただけのやや湿気った衣類のにおいは目立たないだろうか。
たぶん そんなことを気に掛けることもないほど,風にそよぐ街路樹の葉の音や既に舞い落ちてしまった枯れ葉の軽い音、色付きはじめた木々の紅葉が 道行く人に秋の趣を味わわせていることだろう。