和ごよみ短編集
《其の9》『ふしめ』
「夏も近づく八十八夜」
「野にも山にも若葉が茂る」
「・・・あ、あれに見えるは茶摘みじゃないか… って急に歌うとは思わなかった」
「そっかぁ」
早苗(さなえ)は、婚約者の保(たもつ)と一緒に茶畑の広がる町へやってきた。
「でもさぁ先に歌いだしたのは 早苗だろ」
「そうだけど… この風景見ると歌いたくなっちゃうのよね」
「俺もさ、姉貴に手遊びっていうの? 手を叩きやっこするやつ、よく付き合わされてさ」
保は、両手を二、三度合わせて その仕草をして笑った。
早苗は、保のポロシャツの裾を軽く引っ張ると見上げて微笑んだ。
「連休なのに 付き合ってくれてありがと」
「どういたしまして。ま、俺も一回来たいと思ってたけどね。なんせ よく話に出てくる所だしな」
「えぇ、そんなに話する?」
「何処行くって訊いたら茶畑がいいって。早苗は旅行じゃなくて良かったの?」
早苗は、頷いて「今年が最後でいいから来たかったの」と緑の整った茶畑を見つめた。
「あ、俺、自販機で飲み物買ってくるわぁ」
保は、眩しい陽射しを見上げると、通りまで買いに行った。
早苗と保は、同じ会社で知り合った。社内恋愛というやつだ。
転勤で早苗の勤務する本社に来て半年くらいした頃、たまたま給湯室でお茶を淹れていた早苗にぶつかって 彼女の制服を汚してしまったのが出逢いのきっかけだった。
後日、保は、その事のお詫びに食事に誘ったのだが、急な残業ですっぽかし。きっと彼女は怒っているだろうと早苗を避けていた。
とはいっても 同じ社内。仕事上の関わりも発生する。
今度会ったら…と仕方なく謝ることにした保は、廊下で早苗と会ってしまった。
「あのさ。この前のこと……」
「気にしないでください。残業だったんでしょ。あ、そうか、連絡できなかったんですものね」
さばさばと爽やかに応えてくれた早苗のことが気になるようになってしまったのだ。
その後となれば、連絡先の交換を申し出て、食事に誘い、休日はデートに誘い……と交際は進んでいったことは自然の成り行きというもの。
年明けに訪れた早苗の家で 保は早苗の両親に結婚の決意を語った。
両親よりも驚いた早苗は、ぼろぼろ泣きだしたり、満面の笑顔になったり、福笑いのように楽しい正月になった。
桜の頃に結納を交わし、公認の中になっても早苗は保との仲にどこかしっくりしないものを感じていた。