和ごよみ短編集
そんな時、階下から母が帰ってきた気配がした。
「では、わたくしはこれで帰ります」
「え?もう?」
「はい。あの母上様が持ち帰えられた甘茶をお飲みになられたら、その甘茶を垂らした水で墨をすり、四角の白紙に『千早振る卯月八日は吉日よ 神下げ虫を成敗ぞする』と書いてくださいませ。そしてその書を室内の柱や戸口にさかさまに貼ってくださいませ。虫除けになると云われております」
「わかった。さかさまね」
「さようでございます。さかさま」
すると、布団がふわっと膨らんだ気がした。
「帰っちゃったのね」
わたしは、部屋を出て母の居るダイニングに降りていくまでに そんな出来事が春霞のようにすぅっと消えていた。
「やっぱり 賑やかだったわよ。あ、これ分けて貰ってきたからあなたも 無病息災、しっかり飲んでおきなさい」
「これ にがてなんだもん」
「いいの。縁起ものだから。あ、あなたは頭につけておうか」
母は、掌を頭に寄せてきた。
「やめてよ」
「毎年つけてるのに なかなか賢くならないわね。やっぱり私の娘ね」
「毎年つけてたの? まったく…」
まいりました。
そのあと、何故だか小学校のときのお習字セットを部屋から持ち出してきたわたしは、湯飲みに残った甘茶で墨をすっていた。
「なんて書くんだっけ?」
母が貰ってきたの甘茶の容器と一緒にコピーして配られていたのでしょう。言葉がありました。少し自慢の書道でその言葉を書いてみた。
『千早振る卯月八日は吉日よ 神下げ虫を成敗ぞする』
書き終えた硯にはもう甘茶で擦った墨汁は使い切って残っていなかった。
「わたしも 花祭り参ってこよっかなぁ」
母が出かけた寺のお堂の前に たくさんの花で飾られた小さな櫓のような《花御堂》の真ん中に金色の水盤に注がれた甘茶に足元を浸し、柔らかな笑みをうかべているようなお釈迦様があった。
わたしは、竹の柄杓でお釈迦様の頭上から甘茶をそろりと掛け 手を合わせた。
(大丈夫。とってもきれいですよ)
像の布の曲線を流れる甘茶が 春の陽に輝いていた。
さらさら きらり……
― 了 ―