大地は雨をうけとめる 第2章 小侍従の気苦労
一瞬、何のことだかわからず、アニスは『え? ああ……はい』などと口走ってしまった。次の瞬間、彼女は飛び上がって喜んだ。それからそのまま彼女の家に引っ張られて、父親に付き合う承諾をもらう羽目に。
ケンカは最初のにらみあいで勝負が決まるという。男と女の間も似たようなものなのか、最初に、オリンジェの勢いに負けてしまった。その後はずるずると彼女に引きずられていた。
そういった話は広まるのが早い。翌々日にはアビュー屋敷にも伝わった。デナンには釘を刺され、庭師のシャメルドには「婚約したって本当か?」と聞かれて卒倒しそうになった。従僕のルトイクスには嫌味を投げつけられ、洗濯係のおばちゃんたちにはからかわれる。
ルシャデールは……知っているのだろうが、何も言わなかった。私には遠慮しなくていい。そう言っているような背中が寂しげに感じるのは、気のせいか。
そんなことを考えていたら、ミナセ家が近くなっていた。
「主(あるじ)を迎えに参りました」
門番に告げ、案内されて舞楽堂を兼ねた伽藍《がらん》へ入って行く。供人の控えの間で待っていたら、すぐにルシャデールがやってきた。唇を少し突出し、目が憤然としている。
(う……今日もご機嫌ななめだ)
そのとき、パタパタと軽い足音とともに小さな影が飛び出してきた。
「イスファハン!」
ヌスティ家の跡継ぎパルシェムだ。十歳というには小さな体でちょこちょこ動くせいか、小ネズミのようだ。
「へゼナードはどうした?」
他家の跡継ぎを前に、アニサードは膝を折り、一礼する。
「ソワム殿はまだ御用がおありの様子でしたので、わたくしは先に武術指南院を出てまいりました」
「何の用だ」
「それはわたくしにはわかりかねます」
「しかし、」
「こら、小童《こわっぱ》」
パルシェムの不作法に業を煮やしたルシャデールが蹴りを入れた。
「何をする?」
パルシェムはとっさに振り返った。
「何をするも何も、人の前に飛び出してきて、他人の侍従とべちゃべちゃ何を埒もないことをしゃべってる?」
「これは御無礼を。こんなところにのっぽの棒杭がなぜ立っているのかと思うておりましたが、ガマガエル殿でございましたか」
小さいが口は達者で、ルシャデールに負けずに嫌味たらしい。
「何をぬかす、この小童!」
ああ、まずい。これ以上ここにいたら、またいつかのように乱闘が始まる
アニスはあわてて割って入る。
「ソワム殿はまもなくお迎えに来られましょう。しばし、お待ちくださいませ、パルシェム様」
アニサードはそれだけ言うと、後ろからルシャデールの腕をつかみ、抱えるようにして外へ出ていく。門の外まで行って、ようやく彼女を放した。
「失礼しました。しかし、他家の御寮様と揉め事を起こすのはおやめください。それにパルシェム様の方が御年少なのです。多少のことは大目に見て差し上げてはいかがですか?」
「ふん、あの小童は年長者に対する礼儀というものを知らぬからだ。悪餓鬼をほっとくとロクなものにならない。……わかっている、おまえの言いたいことは」
ルシャデールは軽くにらみ、ぷいと、そっぽを向いて屋敷への道を歩き出す。
ガマガエル殿って何だ?
そう思ったが聞くのが憚《はばか》られ、彼は黙ってついていく。と、ルシャデールが振り向きもせずに言った。
「エディヴァリ様に、ガマガエルと言われたんだ」
エディヴァリ・ミナセは先代のミナセ家当主だ。七年前に隠居したが、神和家の跡取りたちに奉納舞を教えるため、屋敷にとどまっている。厳しい人柄はよく知られており、行儀作法にもうるさい。
「ガマガエル……ですか?」
乾燥したフェルガナ平原で、蛙はほとんどいない。ただ、ガマガエルは強心剤として利用されることがあるため、まじない師や癒し手の間ではよく知られている。
「予見や御宣託を主業とするエディヴァリ様が、蛙を御存知でしたか」
「あの方はおまえと同じネズルカヤ山地の方の出身だと聞いた。それより! 私はガマガエルか?」
アニスは考えた。ここは答えを間違うと、また機嫌を損ねてしまう。
「いえ、御寮様はあんなずんぐりはしてはいません。細身ですから、せめて……」とっさに思いつかない。「ヤモリぐらいのものでは?」
ルシャデールの顔色が変わり、アニスは言葉選びを間違えたことに気づいた。こういう時は話をそらすに限る。
「ジュースでも飲んで行かれますか?」
オテルス広場が前方に見えていた。そこではいつも、ジュースや菓子の屋台が出ている。
おまえの魂胆なんかお見通しだよ、とルシャデールは片頬で笑った。だが、すぐにうれしそうにほころんだ。
「サクランボがいいな」
フェルガナのサクランボは酸味がある。その甘酸っぱい味は彼女のお気にいりだ。甘いものが好きなアニスはザクロのジュースだ。
二人で広場の真ん中のオベリスクに寄り掛かって飲む。
飲みながら彼は広場を見回す。
『主人に危害を加えようとする者がいないか、侍従は常に気を配っていなければならない』何度もデナンに言われたことだ。
オレンジ売りのおばさんがお腹のところに大きな籠を下げて客を待っている。
櫛売りの娘は小さな布袋を肩にかけ、木製の櫛を手に通りを行く。前歯が一本欠けている娘だ。ジュース屋のオヤジの話では、酒飲みの父親によく殴られているらしい。
荷車を引く牛が呻くように鳴いている。
オベリスクから少し離れたところで、二人組の楽師が楽器を抱えて手慣らしをしていた。年取った男は三弦のヴィクラを、息子だろうか、若い男は縦笛ロッサイを手にしている。
見ていると、アニスの視線に気づいた年配の男がにっと笑って、歌い始めた。少しかすれているが、深みのあるいい声だった。
「大地は雨をうけとめる
もろ手広げて、
アイサイヤ
お天道様がよこした水は
流れ流れて、さらに流れて
いつかは海へと還りつく
海から空へまた昇るのさ
俺たち流れ者とて
いつかは帰り着くのさ
お天道様のいるところ
大地は雨をうけとめる
かんかんひでりの灼熱も、
冷たい雪、みぞれ、
すべてうけとめ、育んでいく。
アイサイヤ 」
アニスは小銭を出して、彼らの前に置かれた木の椀に投げてやる。小銭は吸い込まれるように椀に入った。
「へえ、うまいね」ルシャデールが感心する。それで終わればいいのだが、「私もやってみる、貸して」と手を出した。
アニスは一デクレ銅貨を渡す。
ルシャデールが投げる。
「ああ! 大はずれだ」彼女は振り向きもせずに、また手を突き出す。
僕の金なんだけどな。
そう思いつつ、黙ってアニスはまた硬貨を渡す。
今度はもう少し近いが、やっぱりはずれた。
五回目、ようやく小銭は椀に入るが、弾かれて外に出る。
「力を入れ過ぎです」
「うるさい! 黙ってて!」
(なんでこんなことに、突然熱中するのかなあ)
二人の楽師がニヤニヤ笑っている。通りがかりの者も、何人か立ち止まって見ていた。
十二回目、やっと硬貨は椀に納まった。
ルシャデールが振り向く。どうだ! 言わんばかりの笑顔で。財産がだいぶ減ってしまったアニスは苦笑で応える。
楽師たちも笑って、拍手をしていた。
作品名:大地は雨をうけとめる 第2章 小侍従の気苦労 作家名:十田純嘉