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大地は雨をうけとめる 第2章 小侍従の気苦労

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「顔つきが締まってきたね」
 武術指南院の入口で、預かり番のじいさんが言った。アニスは預けていた剣を受け取る。
「そう……ですか?」
「ああ、ここへ来始めた時は毎日半べそかいてたが、さすがにイズニデール様の御子息だ」
「ありがとうございます」
 彼はあいまいに笑って応えた。
 『イズニデール・マトケスの息子』
 いったい、何度聞いた肩書きだろう。
 アニスにとって、父の名はイズニード・イスファハンだ。父が母と結婚する前は貴族であったこと、剣の腕が達者であったこと、イェニソール・デナンの友人であったことを知ったのは、四年前、ルシャデールの侍従に決まった後だった。
 貴族であったときの名、イズニデール・マトケス。他人にしか思えない。だが、武術指南院で、宮廷で、街で、デナンに連れて行かれるさまざまなところで『イズニデール・マトケスの息子』として紹介される。そして、一様に「ほう!」という顔で見られる。
 父の評判は悪くなかった。
『妾腹に生まれたのに(これもアニスは知らなかった)ひねくれたところが少しもなく、いつも明るかった』
『小さな頃から優しい子だったよ。重い荷物を持ってたら、すぐに持ってくれようとしたりね』
『曲がったことが嫌いだったね。弱い者いじめする奴らには敢然と立ち向かったよ。それに強かった』
『あいつはよくもてたよ。若い娘からの付け文は多かった。ケシェクスの申し込みは、武術指南院じゃあいつがいつも一番だったぞ。二番はイェニソール・デナンだったな』
 従兄にあたる男から言われた『マトケスの家に泥をぬった恥さらし』というのは例外的な部類に属する。町娘だったエルメイと駆け落ちしたことを言っているらしい。
評判がいいのは息子としても嬉しいはずなのだが、胸につかえるものがある。
 無言の圧力。
 イズニデール様の息子なら剣も上手かろう。
 イズニデール様の息子なら、明るく親切なはず。
 イズニデール様の息子なら……。
 その期待に応えようとするが、応えきれないこともある。特に剣の腕前については。さすがに、最初の頃のように木剣でボコボコにされることはなくなったが。
(父さんなら、きっと侍従の仕事もうまくこなしただろうな。僕には……荷が重すぎる)
 アニスは歩きだしながら、石を蹴った。
 神和師《かんなぎし》には必ず一人、侍従が仕えている。現在では秘書的な存在になっているが、かつては、王が神和師につけた監視人だった。
 フェルガナの王が王家専属の呪術師を置くようになったのは、千年ほど前のアルシャラード王の御世のこと。
 北に興った帝国グルドールが周辺の国を次々と支配下に呑み込んでいった頃だ。軍備を増強する一方で、王はそれまで怪しげな者としてうさんくさがられていた呪術師たちのうちから、十五人を身近に登用した。
 彼らの尽力もあり、またグルドールも領地を広げ過ぎたこともあってか、あちこちで反乱の火の手があがり、帝国は崩壊していった。
 呪術師たちが正式に神和師という身分を得たのはそれからだ。
 しかし、大きな敵が消えた時に、強い味方であった者に対して疑心を抱くのもよくあることだ。フェルガナの王は神和師たちに権力を奪われることを恐れた。
 当時、王の侍従たちは手練れがそろっていた。必ずしも貴族ばかりではなかったが、時に密偵となり、敵地へ潜入する者も多かった。王は神和師たちの動きを知るために、侍従の中でも忠誠心の固い者を選んで、神和師たちに賜ったのだ。
 穏やかな時代が続く今となっては、侍従も神和家で独自に選任する。王からの賜りものという形式だけは残っており、神和家の跡継ぎの成人の儀式に、王からの祝いとして下されることになっていた。そして、その前の半年を、跡継ぎの侍従(当主の侍従と区別するために、小侍従と呼ばれた)は王の侍従として王宮に上がるのだ。
 そういう経緯もあってか、屋敷においては執事よりも上位になる。俸給も高い。
 しかし、そのためにはやらねばならないことも多かった。王宮に上がるからには、剣や弓など武術も身につけねばならない。
 それに、何千人といる貴族の名や姻戚関係や、血族関係を記憶し、薬草のこと、神和師が関わる儀式のこと、覚えておくことは限りなくある
 アニスが侍従に決まった当初、使用人の間でもやっかみや中傷まがいの噂は多かった。御寮様にうまく取り入っただの、デナンが父親の友人だったから、そのコネを使っただのと。
 侍従になりたがっていた若い従僕見習いは、そのあとすぐに屋敷を出てしまい、アニスが辞めさせたようなことも言われたのだ。
 もともと彼は侍従になりたかったわけではない。自分の力には余る職務だと思っていた。ただ、トリスタンが気難しい娘と気が合うようだからと、彼を選んだのだ。
噂もやがて消えた。アニスは侍従に決まってからも、年長の者には敬意のこもった接し方をしていたからだ。
 それでも、彼の気は晴れない。次々と要求されることをこなしていかなければいけない。その水準が今の彼には高すぎた。


 剣術の練習が終わると、今度はルシャデールを迎えに行かねばならない。
 彼女は今、週に四日、奉納舞の稽古に通っていた。
 王宮や斎宮院神殿でさまざまな祭事が行われるが、その折に舞を奉納することも神和師の務めだった。舞の種類はざっと五百以上。神和家の嫡子たちは、跡目を継ぐまでにそれをすべて覚えなければならなかった。
 武術指南院の門を出ようとして、アニスは振り返った。ヘゼナードが出てこない。
まあ、いいか。先に行ってよう。
 そのうち追いついてくるだろうと、再び歩き出した。
 ヘゼナード・ソワムはヌスティ家で小侍従をしている。アニスよりも一つ年上の、おおらかで気さくな少年だ。馬鹿話をできる数少ない友人と言っていい。
 最近そのへゼナードが挙動不審なのが、アニスは気になっていた。彼の主人もルシャデールと同じく奉納舞を習っているため、前は一緒に主人を迎えに行っていたが、近ごろは別行動のことが多い。大きな包みを武術指南院に持ち込んだり、剣の稽古が終わってからもふっとどこかへ消える。
(そりゃ、女の子じゃないんだから、別にくっついて歩かなくてもいいんだけど)
女の子で、思い出した。オリンジェのことを。
(面倒だな、女の子って)
歩きながら石を蹴る。
(何か気に入らないと泣いたりほえたり。どうしてほしいのか、全然わからない時もあるし……御寮様の方がはるかにわかりやすいよ)
 オリンジェのことは、もののはずみと言ってよかった。
 付け文されることはこれまでにもあった。最初にもらったのは、おととしだったか。その後、一緒にいたルシャデールの機嫌がひどく悪くなり、往生したのを覚えている。
 よくわからないが、そういうことは御寮様を傷つける。だから、彼女と一緒の時は極力注意して、受け取らないようにしていた。
 それが先々月、同じ神和家のレセン家へ使いに行った帰り、突然一人の少女が彼の方へ突撃するように走ってきた。目の前で立ち止まったかと思ったら、
『わたし、あなたのことが好きです。時々、会ってもらえませんか』と告げた。