ようこそ、伊勢界トラベル&ツアーズへ!
それが終わると、私の方へ来て言った。
「じゃあ、行きますよ」
応接コーナーの壁、ファンタジーっぽい絵が掛かっているだけの壁。
どこへ行こうと言うのだろう。
「手を繋いで」
訳の分からないまま、私は社長の手を取った。
社長は私に目配せし、繋いでいない方の手を額に入った絵に伸ばす。
次の瞬間、吸い込まれた。
そう。そう表現するしかない。
社長もろとも絵の中に吸い込まれた。
気づくと、眼前に見たことのない光景が広がっていた。
見たことがない?
ううん、違う。見たことがあるような気がする。
海外旅行のパンフレットで。
でもさ、絵の中に吸い込まれて、グランドキャニオンに来てしまったなんて、信じられる?
信じられるなら、あなたはすごいよ。尊敬するよ。
でも私は普通に生きて来て、ちょっと変わったことはあったけど、それでも人並みな人生を歩んできたと思うよ。
そんな私がいきなり異世界に行こうって言われて、オフィスの絵に吸い込まれた先が異世界で――
やったー!
異世界ひゃっはー!
って、なれると思う?
絶対無理でしょ。
普通の神経の持ち主なら、絶対びっくりするでしょ?
びっくりって言い方じゃ足りないくらいに。
「高穂木さん」
社長の声で、我に返る。
「異世界に来た気分はどうですか?」
「どうって……」
グランドキャニオンでしょ? 異世界じゃないじゃない。
でも、ちょっと待って。グランドキャニオンって、こんなに青々としてたっけ?
そう、地形はグランドキャニオンそのものだった。でも、緑が多すぎる。本物は、もっと赤茶けていたはず。
「空を見て見てください」
言われるままに、空を見上げる。
――!
「月が……」
月が、ふたつ。
大きいのと小さいの。
白いのと青っぽいの。
どちらも三日月。
それが、薄暮っぽい空に浮かんでる。
「ほら、あそこにも」
今度は、社長は谷のずっと向こうを指した。
「鳥……ですよね」
鳥の群れ?
黒っぽいのが幾つか飛んでるのが見えた。
羽ばたいてるし、鳥に間違いないはず。
でも、遠近感がおかしい。
この距離であの大きさに見えるってことは……
社長が足元の石を拾って、思い切り遠くへ投げた。
何をしたいのか分からなかったが、その理由はすぐに分かった。
遠くで飛んでいた鳥影のひとつが、こちらへ向かって来る。
社長が私の手を取り、近くの草むらに伏せさせた。
羽音が近づく。
鳥じゃない――!
大きな影が、頭上を過《よぎ》る。
強い風が砂を舞い上げる。
社長が、仕草で黙っているようにと私に言った。
上空を旋回するもの、それは――
ドラゴン――!?
えーと……
混乱する。
月ふたつにドラゴン一丁、お待ちぃ!
あまりに突拍子もない光景に、思考があらぬ方向に行ってる。
え? マジなの? マジでドラゴンなの? 知らない間にVR付けられてるってこと、ないよね?
頭上から甲高い金属音のような咆哮が聞こえる。
あの、伏せて黙ってろってことは、見つかったらヤバいんだよね?
取って食われるかも知れないんだよね?
これって、ショック療法みたいなの?
私が異世界信じなかったから?
だめ、漏らしそう。先にトイレ行っとくべきたった。
それに、お茶って利尿作用あったはず。
社長、そんな趣味あるの? 私が粗相するとこ見たいの?
嫌よ、そんなの。お漏らしして、その上ドラゴンに食べられるなんて!
上空を旋回する黒い影。
それが私を覆うたびに身の縮む思いだった。
いや、マジヤバいって!
私はきつく目を閉じて、一刻も早くそれが去ってくれることを心から祈った。
やがて、風が弱くなる。
「もう大丈夫ですよ」
社長が、私の背を叩く。
羽音も咆哮も聞こえない。
私は目を開けた。
助かった!
死ぬかと思った!
ちょっと、ちびってしまったけど、それは内緒。
絶対言っちゃだめだよ。
男の人だってそうでしょ?
〇玉が縮み上がるとか言うじゃない?
って、私ったら何を――
えいっ、もうどうでもいいや。
とにかく、助かったんだから。
ドラゴンは、すでに遠くに去ってしまって、影も形も見えなかった。
「どうですか、これで信じてもらえたでしょう?」
社長が笑みを浮かべて私を見る。
もう、頷くしかなかった。
ここは、確かに異世界だ。
お話でしか読んだことのない、映画やアニメでしか見たことがない、本物の異世界。
常識的な思考が停止してる。
有り得ないものが、ここにある。
私は立ち上がろうとした。
でも、出来なかった。
腰が抜けてた。
ありきたりな表現だけど、下半身に力が入らない。
まるで、コンニャクかプリンになってしまったと思えるほどに、足は動かせても腰が自分のものじゃないみたいになってる。
「高穂木さん」
社長が手を差し伸べてくる。
私はその手を取ったが、やっぱり腰が……
「ゆっくり、リラックスしてください」
リラックスって言っても……
「力を抜いて」
あの、すでに抜けちゃってるんですけど?
私は、それを目でだけで伝える。どう言っていいのか分からないから。
力を入れても抜いても――漏らしそうなんだよー
「そうですね。足が攣《つ》ったときみたいに、一旦力を抜くんですよ」
ふぅ……
もう、どうでもいいわ――
全身の力を抜く。
それを見計らったように、社長が私の手を引いて無理矢理に立たせた。
「あ……」
「どうかしましたか?」
「いえ……何でもないです……」
ごめん。やっちゃった。
「では、戻りましょうか」
社長は私の手を取ったまま、元の世界に戻してくれた。
恥ずかしさのあまり、私はどうやって戻ったのか覚えてない。
とにかく――
「すみません! コンビニ行ってきます!」
私は大急ぎでオフィスを後にしたのだった。
作品名:ようこそ、伊勢界トラベル&ツアーズへ! 作家名:泉絵師 遙夏