大地は雨をうけとめる 第1章 跡継ぎ娘の憂鬱
一瞬、何のことだかわからなかった。が、すぐに思い出した。瞑想の行をすることになったきっかけを。
治癒術の練習で失敗ばかりしていたのだ。
ナイフで浅い傷を作り、手をかざして元通りに治す。普通の人間にはとうてい無理なわざだが、ルシャデールはわりと用意にしてのける。そう、アニスが練習台でさえなければ。
彼は血を見るのが苦手だった。
アビュー家の施療所は、時に血まみれのケガ人が担ぎ込まれてくることがあるのだが、彼はそれを目にして失神したことが何度かあった。
さすがに最近は慣れてきたようだが、治癒術の練習台になるのは気がすすまないらしい。
アニスの緊張はルシャデールにも伝わる。
失敗してはいけない。そう思ってしまうことが逆に失敗を呼ぶ。
昨日は血を止めるどころか、吹き出させてしまった。
恐怖に固まり呆然としているアニスを前に、王宮の庭園の噴水みたいだと、ルシャデールは妙に冷静に見ていた。たまたま近くを通りかかったエクネの悲鳴で我にかえり、すぐさまトリスタンを呼びに行き、適切な処置をしてもらい事なきを得たが。
その後で、しばらくの間、瞑想の行を毎日行うようルシャデールは言いつけられたのだった。
「え、はい。ああ、いいえ」
養父の問いにルシャデールはあいまいに答えた。
「それは困ったねえ」さほど困った口調でもなくトリスタンは鷹揚に微笑う。「雑念ばかりかい?」
彼は癒し手として一流だが、霊感はないに等しい。そのくせ妙なことに勘がいい。雑念の中身に気がついているのかもしれない。考えると身をよじりたくなる。
「まあ、君の年頃で静かに考えを巡らすのは難しいかもしれないな」
そう言って肉詰めのナスを口にひらりと放り込んだ。
生まれながらの貴族のように、彼の所作は優雅だ。スプーンを使うにしても、トルハナで包んで食べるにしても、衣服を汚すことなどない。神和師の長衣は袖先がゆったりと広がっているため、料理を取る時に汚しやすいのだ。
「あなたも雑念があったの?」
「もちろん」
「どんな?」
「秘密」片眉をひょいと上げて、彼は微笑む。「君の雑念を教えてくれるなら話してもいいよ」
三十過ぎても、まるで少年のようにいたずらな輝きをまとう養父に、ルシャデールは軽く息をついて目をそらした。
アビュー家に来た当初は、トリスタンにしばしば嫌味や皮肉を言っていたが、最近はそんな余裕はない。そばに控える給仕も侍従二人(もちろんイェニソール・デナンとアニサードのことだ)も、父娘の会話を聞いているが、眉ひとつ動かさない。
誰か何とか言ってくれればいいのに。
そう思いつつ、トルハナにオクラとトマトの煮物を包む。ルシャデールは食べるのが下手だ。食事をして袖を汚すのはよくあるし、落とすことも多い。小さい子供みたいに服を汚すのが、恥ずかしかった。
オクラがぼとっと服に落ちた。うっ、と息を飲む。膝の上のナプキンにではなく、なぜか外衣の裾についている。
彼女はナプキンでオクラをそっと取り除いた。以前こすって取ろうとしたら、『染みになります』とアニスに言われた。柔らかく注意されたのが、よけいに恥ずかしかった。
ルシャデールは食べかけのトルハナを呑み込んでしまうと、ごちそうさま、と立ち上がった。
「もう、終わりかい? ほとんど食べていないじゃないか」トリスタンが言った。
「食欲がない」
「そりゃいけないね」
返事をする気もなく、ルシャデールは汚れた外衣を脱いでアニスに放った。外衣はぶわっと広がって彼の頭と上半身にかぶさった。
(ああ、もう嫌だ)
ルシャデールはトリスタンの部屋を出て行った。
トリスタンは給仕係にルシャデールの食事を部屋へ運んでやるよう指示した。それから彼女の侍従の方を向き、
「情緒不安定が続いているようだね」と意味ありげに笑う。
「はい」アニサードは困ったように答えた。
「小食は以前からだが、最近は傷の手当もうまくいかないようだ」
「何かご心痛でもあるのではないかとお聞きしても、何でもないと仰られるばかりです」
「二ヶ月ぐらい前から……かな? 何か心あたりは?」
アニサードは首を振る。
「いいえ、何も。申し訳ございません」
給仕係が彼女の食事を運んで行くのと一緒に、彼はルシャデールの外衣を持って辞した。
二人がいなくなってから、トリスタンは声を上げて笑いだす。
「ははは、面白いね、イェニソール。アニサードは全く気づいていないのか?」
「そのようでございます」
デナンは侍従らしく表情を変えずに答えた。
「初々しいな。十四、五の頃はあんなものだったかな?」
「さあ、どうでしょうか。御前様がそのご年齢の頃、私はお仕えしておりませんでした。しかし、多少は聞き及んでおります。十二歳の時は牛飼いの娘、十三の時に貝売りの娘にご執心であられたとか。十五歳の時には、粉屋の娘と駆け落ちの約束をされて、三日間、屋敷にお戻りにならなかったと」
粉屋の娘は相手が神和師の跡継ぎと知り、怖れをなして、待ち合わせの場所に来なかったのだった。半日待って、トリスタンは裏切られたことを知った。悲しさと恋しさでピスカージェンの街をさまよい歩き、やがて屋敷の者に見つかり連れ戻されたのだった。
デナンが先代当主の命を受けて、トリスタンの護衛についたのはそれからまもなくのことだった。護衛というより監視と言った方が適当かもしれない。
その二年後、彼の侍従だった青年が亡くなり、デナンが侍従となった。粉屋の娘が嫁に行ったと聞いたのはその頃だったろう。今ではあの痛みもいい思い出に変わっている。
「いいな、若い時は」夢見るようにトリスタンはつぶやく。「しかし、アニサードはつきあっている娘がいるんだろう?」
「はい」
「結婚するつもりなのか?」
「さあ、どうでしょう」
デナンは澄ました顔で答えた。
「父親の許しを得て付き合うとなったら、普通は結婚が前提だろう?」
「あまり、深く考えずに返事をしてしまったようです」
「まあ、いずれは彼も嫁をもらうこともあるだろうが……」
トリスタンの顔がわずかに陰る。
常日頃、一緒に行動する侍従が家庭を持ったら、ルシャデールの孤独が際立ってしまう。だからといって、アニサードが好きな娘を妻にしたいと望むのを禁じるのは酷だ。
「釘を刺しておきました」
「釘を刺した?」
「御寮様以上に大切な者などありえぬと。もし、御寮様のことが第二、第三となるようであれば、即刻アビュー家から出ていけと、申しておきました」
それはまた、きついことを、と思ったが、トリスタンは口には出さなかった。
アニサードにはルシャデールのそばにいてやってほしいと思っている。気が強く憎まれ口の多い娘だが、四年間、父娘として暮らしていれば情がわく。神和師の跡継ぎに選んだことで、彼女が寂しい思いをしたり、不幸せになるのは望んでなかった。不幸になるくらいなら、いっそのことアビュー家など潰してしまってもいい、とさえ考えていた。
だが、その一方で癒し手としての自分に誇りを持っている。それをルシャデールが理解してくることを願いつつ、彼は食事を終えた。
作品名:大地は雨をうけとめる 第1章 跡継ぎ娘の憂鬱 作家名:十田純嘉