大地は雨をうけとめる 第1章 跡継ぎ娘の憂鬱
エクネは手際よく脱いだ服をたたんでいく。
体は疲れていない。疲れたのは精神《こころ》だったが、ルシャデールは「うん、まあ」と答えるだけにとどめる。
エクネはルシャデールづきの侍女ソニヤの従兄の娘だった。昨年の夏から侍女として屋敷に来ている。結婚を三月後に控えて許嫁が急な病で亡くなり、すっかりふさぎ込んでいたという。
おりしもトリスタンがもう一人、ルシャデールに侍女をつけようと考えていた時だった。いくら侍従でも、男のアニサードでは理解できないことだってある。彼女と同年代か、少し年上ぐらいの若い女性をそばに置いてやった方が、娘同士で話もしやすいだろうというはからいだった。
エクネの方は大きなお屋敷で御寮様のお相手をするということに、気おくれしたようだが、今ではすっかりアビュー家にも慣れて、よく働いている。
ルシャデールより四つ年上だが、柔らかい面差しや明るい瞳はいかにも娘らしい。
浴槽につかりながら、ルシャデールは自分の手をじっと見る。肉があまりついておらず、筋張っている。女の手じゃないな、と思う。骨っぽい体は棒のようだ。
「お湯加減はいかがですか?」
「ちょうどいい」
ホホバと月桂樹の精油を入れた湯が芳しい。清々しくて気分がさっぱりとする。
風呂から上がって、ぬれた髪を拭いてもらう。鏡の中の自分とエクネを見比べてしまう。金色のエクネの髪は豊かに波打つ。同じ色合いでも、ルシャデールの髪は艶がなく、くすんでいた。フェルガナでは珍しいくらいの白い肌やピンクの唇、ルシャデールにはないものばかりだ。
「きれいだね、エクネは」
そんなことありませんと、否定しつつも、エクネはうっすらと頬を染める。
「御寮様だって、これからおきれいになられます」
今はきれいではない、ということか。まあ、それはわかっている。
でも、きれいになったからって、どうだというのか? 神和家の跡取りが、きれいになる必要はない。
エクネも最初に執事か誰かに注意されているはずだ。御寮様の前で年頃の娘を連想させる言葉は禁物だと。おしゃれ、口紅、眉墨、恋……花嫁。
黙り込んだルシャデールに、彼女も気がつく。 申し訳ありません、とエクネが小さな声で言う。
「気をつかわなくていいよ」ルシャデールは笑ってみせる。「他の女の子がうらやましいとは思わないし」
半分嘘で半分は本当。
フェルガナの娘たちは、それほど自由ではない。家庭で力を握っているのはたいてい父親だ。娘たちの素行は父親と、それに従う母親の厳しい管理のもとにある。
身内以外の男と二人で出歩くなど、もってのほか。父親の許しが必要だし、男と会う時兄弟や乳母が必ずついて来る。結婚も半数以上は父親の決めた相手だ。
エクネの結婚も父親が決めた。二度ほど会ったが、特に感慨もなかったらしい。それより婚礼の衣装や嫁入りの道具など、準備がされていくのが嬉しかったという。
ソニヤの話では、婚約者が亡くなった後、あんな娘と婚約したから息子は死んだ、とんだ疫病神だ、などと、相手方の母親が言いふらしていたらしい。
『大事な息子さんが亡くなって、向こうのお母様もショックだったんでしょうけどね。それでも、言っていいことと悪いことがありますよ』
珍しくソニヤが怒っていたのを、ルシャデールは覚えている。
エクネの父は、つとめに出すなど外聞が悪い、悪い虫がついたらどうするんだ、嫁のもらい手がなくなる、と反対したが、ソニヤが押し切ったらしい。
(器量がいいし、嫁ぎ遅れるなんてことないだろうに、エクネなら)
ふと、オリンジェとかいう娘のことを思い出す。クズクシュ地区の貸し物屋の娘だ。焦げ茶色の髪をして、黒いぱっちりとした大きな瞳と、少し気の強そうな唇が魅力的な少女だった。エクネとは違う雰囲気だが、彼女も嫁入り先には困らないだろう。
二ヶ月前からアニスとつきあっているという。
神和師の侍従と言えば、宮廷にも出入りし、高貴な方々とも知り合いだ。俸給も高い。それでいて出自は一般庶民が多いため、貴族ほど気位が高くはない。町の娘たちにとっては、手の届きそうな玉の輿だ。
容姿は十人並みながら、アニスは穏やかで優しい性質の持ち主だ。老若男女を問わずだれにでも親切だから好かれない方がおかしい。
街を歩いている時などに、付け文されることもある。
二、三人の女の子がもじもじと、あとずさりするように近寄ってくる。彼女らはルシャデールを無視して、供をしている彼の方に小さく折りたたんだ紙を手渡してくる。
これ、あの子から。
指差した方には、家の陰に隠れて、女の子がこちらの様子をうかがっている。
最初の頃は、アニスも少しうれしそうだった。だが、そのうち、しだいにいい顔をしなくなり、ここ半年ぐらいは、はっきりと嫌な顔をするようになっていた。いくらか自分に気をつかっているのかもしれなかった。遠慮しなくていいと思いつつ、なんとなく安心していた。
髪を乾かし終わって、エクネが外衣を着せかけてくれる。衣服は下着から上着まで上質の絹物だ。金糸、銀糸で繊細な模様を刺繍をした長衣《セニード》だが、男の正装とほとんど変わりない。やせて、顔も体もふっくらとした柔らかさを感じさせないルシャデールが着ると、少年のように見えてしまう。おまけに声も低めだ。男に間違えられることもある。
アビュー家に来た頃は、神和師になることがどういうことか、あまりよくわかっていなかった。
同年代の女の子が着飾り、リボンで飾られた帽子をかぶって、はにかみがちに、あるいは目をきらきらさせて、男の子を見つめているのを目にすると、いつも複雑な気持ちになる。彼女たちが結婚し、子供を産み、育て、年取った時に子供や孫に囲まれた時も、ルシャデールはたぶん一人だ。
それでも、アニスがそばにいてくれる、そう思っていたのはいつまでだったか。
オリンジェはかわいい子だと、ルシャデールは思う。その辺の女の子の中でも、いい方だ。多少気が強いかもしれないが、優しい子だろう。
アニスだっていずれは嫁をもらうだろう。早くに家族を失った彼は、家庭に対する憧れがあるはずだ。それなら、優しい子の方がいい。そう思いつつも、ルシャデールの気持ちはすぐれない。
部屋に戻った彼女に、従僕が夕食を告げた。
(ああいうかわいい子なら、嫁入り先だって不自由しないだろうに、なんでアニスなんだ)
ひりつく思いが胸を占める。
食事は以前と変わらず養父の部屋でとっていた。
フェルガナでは食事用の部屋を作らない。普通は居間にきれいな布を敷いて、その上に料理の皿を置くが、裕福な家なら一人用の小卓をしつらえる。
(ああ、またトマトづくしか)
ルシャデールは小卓をざっと見て、がっかりする。
フェルガナ料理はトマトやピーマン、ナスが多い。乾燥しがちな土地でも作れる作物だからだろう。
好き嫌いはないし、お腹が一杯になれば満足なのだが、トマトの入った煮物はどろどろして、こぼしやすい。それをトルハナという薄焼きのパンに包んで食べるのが、ルシャデールは下手だった。
「少しは気分が落ち着いたかい?」
料理と格闘していると、養父トリスタンが声をかけてきた。
作品名:大地は雨をうけとめる 第1章 跡継ぎ娘の憂鬱 作家名:十田純嘉