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大地は雨をうけとめる 第1章 跡継ぎ娘の憂鬱

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御定処《ごじょうどころ》は静かだった。四月の乾いた暖かさもこの室内には届かず、ひんやりとした空気が軽い緊張とともに満ちている。石壁が呼吸している音も聞こえそうだ。外では庭師のバシル親方の声がする。剪定《せんてい》ばさみの手入れがなっていない、と誰かを怒鳴っている。
(アニスは何をしているんだろう……)
 瞑想の行《ぎょう》のためにこの御定処に入って半時は経っている。この問いは七度目だった。ルシャデールはあぐらをくずし、両足を伸ばす。腕を頭の後ろで組み、大柱にどっかりともたれた。
(はあ……)
 深々と息をついた。
 最近アニスのことばかり考えている。


 ルシャデールがアビュー家の養女となって、四年が過ぎていた。
 アビュー家は代々|神和師《かんなぎし》を務める家だった。神和師とはフェルガナ王家専属の呪術師であり、同時に神子《みこ》もしくは巫覡《ふげき》というべきものだ。もともとは月の女神シリンデ信仰にあった巫女と北方の呪術師が混交して一つになり、国の繁栄とその民の守護を祈祷する役割を担っていた。
王家に仕える呪術師として、大貴族並の厚遇を得ている。
 所有する荘園からの収入に加え、配下の寺院からの奉納金もあり、内情は裕福だ。怪しげながらも無視できぬ異能の持ち主であり、王家をはじめとするやんごとないかたがたの私的な相談役となることしばしば。
 ただ、心身ともに清浄であるべき神職者という立場から、職を辞するまで結婚は禁じられていた。そのため、九つの神和家では当主が三十前後になるとユフェレンの子供を養子にとり、跡継ぎとするのが習わしだ。
 ルシャデールは『ユフェレン』、すなわち「ユフェリに触れる者」だった。
死霊や精霊、神々が属する世界は『ユフェリ』と呼ばれる。
 幽霊が視《み》える者はしばしばいるが、『ユフェリ』に満ちている純粋な『気』を取り出して利用したり、あるいは『ユフェリ』自体に入って行ける者はそう多くない。
 幼い頃から、ルシャデールは幽霊や精霊の類を当たり前に視ていた。
 その場にない景色が現実の風景に重なって現れたり、何か言葉が降ってくるようにひらめくこともある。それらは、時をへて実際に起きることもある。そうでなければ遠い過去か別の世界の幻影のようでもあった。
 六歳で孤児になった時、当初は文字通り路頭に迷っていた彼女だが、やがて辻占いをして日々の糧を得るようになった。
 アビュー家の養女に迎えられたのは、それから四年後のことだった。


 ふう。
 ため息が出た。
 昼過ぎ、アニスは養父《ちち》の侍従デナンと外出した。どこに行ったのか、彼女は聞いていない。ただ、デナンが『アニサードをお借りします』とだけ言い置いて行った。
 アビュー家に来た当初、彼は屋敷の僕童だった。心暖かく穏和な少年だったが、家族を豪雨災害で亡くし、深い心の傷を抱えていた。
 死んだ家族にもう一度会いたい。
 そう願う彼を、ルシャデールは精霊や神々の住まう世界『ユフェリ』へ連れて行った。そこには死者の魂が憩う庭があった。
 それから少し後のことだ。アニスがルシャデールの侍従に決まったのは。
(あの頃のアニスはかわいかったな)
 ふっくらした顔に笑みが浮かぶとお日様の下のたんぽぽみたいだった。
 すれっからしのルシャデールから見れば、すこし単純で、こいつバカだ、と思うこともあったくらいだ。
 それが最近では、妙に生意気になってきた。背も高くなって彼女を見下ろすようになり、態度もやや素っ気ない。


 渡り廊下に足音がする。それに固めの衣擦れの音。アニスだ。ルシャデールはあわてて瞑想の姿勢を取る。
「御寮様」扉の向こうから声がかかった。「アニサードです。ただ今戻りました」
「うん」
 失礼いたします、と彼が引き戸を開けた。銀鼠の長衣に紺の外套を羽織り、片膝を立てて侍している。
「湯浴みの用意ができていると、ソニヤが申しておりました」
「わかった」
 アニサードは彼女のサンダルをそろえて扉の脇に身を移した。侍従は主人の一挙手一投足に注意を払う。もし、主人が何かのはずみで長衣の裾《すそ》でも踏み転びそうになった時、すばやく手を貸すために。あるいは、ちょとしたしぐさから主人のささいな異変を見逃さぬために。
 その視線に、きゅっと胸が緊張する。それを振り払うかのように、ドスドスと音を立てて歩き出す。
 アニスの横を通り過ぎた時、針葉樹の香りが匂いたった。彼が服につけている香油だ。
 渡り廊下に出ると、さあっと風が彼女の身を吹き撫でていく。満開のあんずの花が、薄桃色の花びらを散らした。
 一瞬、そのさまにルシャデールは心を奪われた。舞う無数のはなびらに、移ろいゆくさまざまなものが視えたような気がした。
 目の前を吹きすぎる、その一枚を捉えようとしたが、手の中は空だった。
 アニサードが同じことをしてみせる。柔らかな笑みとともに、ルシャデールに向けて差し出された手のひらには、はなびらが二枚。薬指で押さえられていた。
 それをつまみとろうとしたが、その前に再びはなびらは風に吹かれていった。
『十四、十五はあんずの花よ、早く散らすにゃ惜しすぎる』
 そんな戯《ざ》れ歌が頭をよぎる。
「前は鈍《どん》くさかったもんだけど……少しはましになったか」
 辛口の主人にアニサードは苦笑するが、その瞳は変わらず明るい。
 彼は今、武術指南院《アデール》に通っている。侍従は神和師の主人を守る護衛でもある以上、剣ぐらいは使えた方がいいということだろう。軍務につくわけではないので、剣、弓矢、乗馬の三種だけだが、動きが機敏になり、顔つきに少し精悍さが出てきた。
(でも、鈍くさい頃の方が好きだった)
 ルシャデールは胸のうちでつぶやいた。
 渡り廊下は突き当りで分かれる。右に行けばカシルク寺院。左に行けば屋敷の本棟だ。
 浴室は二階の奥にあった。
 乾燥しがちのフェルガナで、湯浴みは一般的ではない。貴族や商家など、ある程度富裕な家なら浴室はあるが、たいていは蒸気風呂である。庶民が通う公衆浴場《マハムル》もそうだ。
 湯(または水)をはった浴槽で入浴するのは、神和家《かんなぎけ》の者と月の女神シリンデを祀る斎宮院の巫女ぐらいのものだ。
 アビュー家に来る前、母と暮らしていた頃は二、三週間に一度くらい、ぬらした布で体を拭いたりしていただろうか。しかし、母に世話をしてもらった記憶はほとんどなかった。浮浪児となってからはそれもない。春から夏に川で水浴びをした程度だ。
アビュー家に来て、風呂に入らされるようになり、最初の頃はかなり抵抗したものだ。熱い湯に慣れていなかったし、当時の世話係とそりが合わなかったこともあったのだろう。今ではすっかり湯船につかるのが好きになっている。
 むしろ、祭事の前の水垢離の方が嫌でたまらない。冬でも冷水だからだ。もっとも、一番寒い時期には、アニサードが気を利かせてお湯を足してくれる。
「はああー」
 浴槽のふちに頭をもたれさせ、天井や壁のタイル模様を眺める。フェルガナ南東部の町オスジニで焼かれたタイルだという。ユーモラスな顔つきの魚が浴室を取り囲んで泳いでいる。ラピスラズリに似た青色が美しい。
「お疲れのようですね」