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短編集56(過去作品)

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坂道の願い事



                 坂道の願い事


 清水強は、出張が多い職業に就いたことを幸いに思っていた。
 最初は慣れないビジネスホテル暮らし、なかなか落ち着けなかった。どこのビジネスホテルも似たような部屋で、ベッドが部屋の半分近くを占領していて、テレビにエアコンがあるのはいいのだが、仕事をしようにも申し訳程度の仮設に近いテーブルと椅子が用意されているだけだ。
 何と言ってもユニットバスが嫌いだった。狭い浴槽、洋式なのだろうが、カーテンでトイレと仕切られていて、シャワーを浴びる時はいくら浴槽の中とはいえ、水飛沫が散乱する。
 トイレやサニタリーを使用する時に気持ち悪くもなるというものだ。
 それでも最近は慣れてはきているが、この味気なさは、時々情けなさに変わってくることもあった。
 結婚した頃は精神的に複雑だった。
 本当なら暖かい家庭でゆっくりできるのに、それがままならない苛立ちは正直あった。
 結婚するまでは、実家からだったので、部屋を留守にすることもなかった。一ヶ月のうちの十日以上も部屋を留守にするのだから、一人暮らしをして部屋を借りているのも、もったいないというものだ。
 妻の春江とはスナックで知り合った。
 あまりアルコールの呑めない清水は、会社の上司に連れて行かれたスナックで、大人しくしていたのだ。
 上司はよく部下の面倒を見る人で、清水以外の部下もよく誘われていた。清水があまり呑めないのを知っていた上司は、無理に清水を誘うことをしなかったが、時々声だけは掛けていたのだ。
「いつもありがとうございます。では、せっかくなので」
 あまり毎回断るのも失礼にあたる。たまにはお付き合いもしなければいけないだろう。上司は優しい人なので、無理に酒を勧めることもないだろうし、仕事以外の付き合いが大切なことは分かっていた。
 その頃はまだ出張も多くなく、まだ営業の仕事も見習いに過ぎなかった。まだ入社して一年も経っていない頃なので、まったくの新人と言ってもよかった頃だ。
 上司というのは、営業課長で、直属の上司である。課長はいくつかのエリア営業をご念ほど経験し、本部でさらに数年のキャリアが認められて、営業課長に抜擢された。会社では学閥なるものがあって、課長は学閥に属している学校を出ているわけではないのだが、それでも営業課長への昇進は、出世街道に値するものだと言われていた。
 清水は、学閥出身者で、同期入社の人も先輩にも、入社前から知っていた人は何人かいたりする。それだけでも安心感があるというものだ。だが、そういう人たちを課長のような人がどのような目で見ているのだろう。気になるところだった。
 先輩の中には、
「あまり課長に嫌われるようなことをしたくはないよな。ある意味、気を遣うよ」
 と言っている人もいる。
「課長は結構面倒見もよくて、会話も饒舌なんだけど、時々何を考えているか分からないことがある。そんな時に、学閥外の人なんだなって感じることもあるよ」
 と言う人もいる。
 確かにどちらの意見も分からなくない。だが、清水自体も学閥入社ではあったが、あまり群れをなすことが好きではないので、なるべく学閥を考えないようにしている。
 大学時代もそうだった。
 類は友を呼ぶというが、自然と似たもの同士が集まってグループを形成するのをたくさん見てきている。自分も数人のグループの中に入っていたが、あまり一つのグループ内だけで行動するのは好きではなかった。
 もっとも、清水自体が多趣味だったので、いろいろなグループに顔を出していた。読書が好きだし、釣りも好きだ。また、野球シーズンが始まると、野球観戦が好きなので、野球観戦ツアーと称し、数人のグループを結成したのは、他ならぬ清水自身だった。
 もちろん、いくつものグループで重複した友達がいたりもするが、まったく雰囲気の違うグループである。たくさんのグループに所属するのだから、いくら大学生とはいえ、それぞれに深く入り込んでしまっては時間がいくらあっても足りなくなってしまう。
 そんな時に一つのグループにドップリ浸かっている人を見ると、
――何とも視野が狭くなっていそうだな――
 と思えてならない。そういう意味でも、一つのグループに所属している人は、自分の殻に閉じこもりやすいという思いも否めなかった。
 だが、それだけならいいのだが、すべて自分のグループ中心に回っていると思うのも怖いところだ。
 例えは悪いが、おばちゃんたちの集団を見るとよく分かる。
 ファミレスなどで、大きな声で人の迷惑も考えず話をしている。人に聞かれてまずい話だろうがお構いなしだ。
 何よりも嫌なのが、レジでお金を払う時である。
「私がここは」
 と一人が払おうとすると、
「奥様いけません。ここは私が」
 と言って、レシートを強引に奪おうとする。
 お互いに気を遣っているのではなく、自分の体裁をつくろって、優位に立ちたいという気持ちが白々しい。最近ではあまり見かけなくなった光景だが、それが却って目立つのである。
――いまだにそんなバカなことをしてるんだ――
 と思うのは、自分たちだけのことしか考えていないからだ。後ろでレジを待っている人がいても関係ない。彼女たちは自分たちの中だけで体裁が整えばそれでいいのだ。
 あまりにも極端な例だが、群れをなしているのを見ると、どうしても自分たち中心の世界を形成しているように見えて仕方がない。自分はなるべくそんなことはないと思っているが、時々自分すら信じられなくなることもあるくらいだ。
 会社に入ってからは、まったくグループに所属する気にはなれない。中には学閥を理由に数人で時々呑みに行っているらしいが、会話の内容は、半分がストレス解消の愚痴に思えてならない。それだけは嫌だった。
 愚痴を零し始めると、逃げ場所ができてしまう。ストレス解消に気分転換は必要なのだが、それが愚痴になると甘えになってしまうのは必至だ。呑み屋で上司の悪口や、仕事への愚痴を話しているのを想像すると、まわりを憚ることなく大きな声になってしまって。飲み屋全体に愚痴の声が響いている。まるでファミレスの「おばさん軍団」のようだ。
 清水はあまり愚痴を零さない。言い訳もする方ではない。愚痴にしても言い訳にしても、されると腹が立つ。だから自分もしないのだ。
 会社に入ってすぐ、言い訳ばかりする同僚がいた。
 大学は学閥ではなく、清水たちが出た大学よりも、世間一般のレベルは高かった。
「お前なら、もっといい職場があったんじゃないのか?」
 呑み会でついそのことを口にした同僚に、
「いいじゃないか。放っておいてくれよ」
 とムキになって怒っているのを見たことがあった。その声は店全体に響き、
「どうしたんだ?」
 と先輩から言われて、二人とも気まずい雰囲気のまま、何も言えなかった。言い訳ばかりしているやつが一言も喋れないのだから、相当ツボをついたに違いない。
 成績はそれほど悪くなかったとは聞いている。それだけにどこか一流企業に行けない何かがあるのだろう。ひょっとして本人が希望したものかも知れない。
作品名:短編集56(過去作品) 作家名:森本晃次