時計
思い出したように、沙弥香は頷いた。「ねえ、うちの学校の七不思議って知ってる?」
「夜中にピアノが鳴るとか、天井に裸足の足跡があるとか?」
と、みゆき。
夜中にピアノが鳴るというのは、まあどこにでもある話だ。しかし、彼女達の学校の地下室の天井には、実際に足跡が点々とついていた。しかもそれは、かつて防空壕があったと言われている地下倉庫の辺りにまで続いているというのだった。
「まあ、いろいろと言われてるけどね。例えば、秋の朝早くプールに出来た靄が、だんだんとまとまって女の人の姿になるとか……。でもね、本当の七不思議は昔からあるクラブのうちの幾つかが、それぞれ語り伝えてるってこと知ってた?」
それは皆、初耳だったらしい。
「仕方ないわね……」
一同が黙って顔を見合わせるばかりなので、沙弥香は溜め息をついた。「いいわ。私が封印を解いてあげる。でもね、ここだけの話よ」
女の子同士の「ここだけの話」ほどあてにならないものもないのだが、話す方もそれくらいのことは勿論心得ている。それでいて彼女は一応釘を差したのだった。
「みんな、一人でおトイレに行けなくなったって知らないからね」
沙弥香はさらに、そう言った。「じゃあ、話すわよ」
皆が固唾を呑む。
重苦しい静かな時がほんのわずかの間流れ、ようやく彼女は語り始めた。
――彼女達の学校の歴史は古く、大正時代にはその前身である女学校が、現在の半分ほどの敷地でそこにあった。当時でも名門校として名高く、清楚な乙女達の学舎(まなびや)としての風格、気品といったものを漂わせていた。
かつて学生達は見せかけだけの平和の中で、青春時代のほんのわずかな間ここで学び、そして巣立って行った。
その後、大東亜戦争が始まり、最初の連戦連勝が嘘のように敗戦への急な坂道を転がり始める。連日のラジオ放送や新聞報道とは裏腹に、都市そのものを標的にした無差別爆撃が繰り返され、人々はいつ来るか分からない空襲に怯えながら、不安な毎日を送ることになる。
まず、この程度の時代的背景を踏まえた上で、この話は進めなければならないだろう。
その当時、この女学校に通っていた生徒に吉堀歌苗(よしぼりかなえ)という少女がいた。彼女の夢は、教師になることだった。大学教授で博識な父と、多少なりとも文学をたしなむ母の影響もあっただろうが、彼女自身としては、自らが学んできたことの歓びを、国の未来を背負って立つ子供達に伝えたかったのである。
しかし、少女のそんな平和な夢を、無情にも運命はことごとく踏みにじってしまうのである。
彼女が女学校に進学したとき、世はすでに戦争の真っただ中だった。
歌苗は恋をしていた。時代が安易にそれを許さないことは、彼女にも充分過ぎるほどによく分かっていた。相手は、女学校の南にある中学校に通う一つ年上の学生だった。二人は人目を忍んで毎週決まった時間にそれぞれ別の道を通って、街道沿いの神社の境内で会っていた。
この戦争が今どのような状況であるか、それは素人目にも明らかだった。しかし、それを口実に戦争を否定する者など誰ひとりとしていなかった。
歌苗の住むこの都市は、かなりの人口を有しているにもかかわらず、これまで一度も空襲を受けていなかった。人々は偽りの平和の中で、それらのことを他人事のように思ってさえいたのである。
その頃にはすでに、学校では授業らしい授業は行われておらず、ほとんどの生徒は軍需工場に動員されてしまっていた。学校に残ったわずかな者も校庭に畑を作ったり、南の師団から送られてくる軍服の修繕といったことに従事していた。
歌苗は病弱ではないにしても、普段から丈夫な方ではなかったため、学校に残ることになった。
歌苗は医務室の簡易寝台に横になっていた。その日は朝から体調が悪く、少女期特有の憂鬱も手伝って、歌苗は鉛のような体の重さを感じていた。他の者ももちろんそれに気づいはていたが、そうと知ったところで彼女を休ませてやれるほどの余裕などなかった。
そしてついに、間もなく午前が終わろうという時間、寒々とした陽光の照りつける下、歌苗は貧血を起こして倒れてしまった。
歌苗は薄暗い医務室の中を見回した。
「あ、気がついたのね」
傍の椅子に腰掛けていた少女が、立ち上がって言った。
「彩乃……。私……」
「いいのよ、ゆっくりしてて」
彩乃と呼ばれた少女は微笑んだ。彼女は、歌苗の親友でもあった。
「みんなは?」
歌苗が訊く。
「校庭にいるわ」
「そう。私も行かなきゃ……」
「駄目よ。また倒れるわ。たまにはのんびりしてたって、ばちは当たらないわ」
「でも、ずっとこうしてたら、動くのが却って億劫になるわ」
「……」
彩乃はしばらく何かを考えているように歌苗を見つめていたが、やがて無言で頷いた。 歌苗はそっと片足を板張りの床に着けた。
「歩ける?」
「ええ。大丈夫みたい」
静かに一歩を踏み出して、歌苗は言った。
立て付けの悪い引き戸を開けて廊下に出ると、途端に凍ったような冬の空気が二人を立ち竦ませた。陽の当たらないそこには、明け方の身を切るような冷たさがまだ残っていた。
二人は誰もいない廊下を歩いて行った。
少し先に、ぼんやりと明るい所がある。そこは、この学校の自慢である大階段室だった。その左右対称の洋風建築の粋の総てがそこに結集されていると言っても過言ではなかった。 吹き抜けの広いホールの南向きの窓から、日中の陽射しが斜めに差し込んでいる。
しばし二人は足を止めて、それに見入った。この静かな光景を見ている限り、ここが戦時下に置かれた都市であるとはとても思えなかった。
その時、どこからか耳慣れない音が聞こえてきた。
二人は音の源を探るように振り返った。
地面を揺るがして、激しい爆発音が立て続けに起こった。廊下の窓硝子の数枚が砕け、輝きながら舞い散る。
ひび割れたまま辛うじて残った硝子を透かして外を見ると、すぐ近くで煙を上げている建物が見えた。
――空襲!
まさか! こんな昼の最中(さなか)に!?
この都市(まち)に空襲!
まさか! まさか!!
「まさか!」
二人は動けなかった。現実と非現実の狭間で双方から責め立てられて、全ての目に見える動きは封じられてしまっていた。
そして――。
一発の爆弾が、校舎を直撃した。
二人はその瞬間、何が起こったのか理解出来なかった。悪意に充ちた空気の塊が、自分達に向かって怒り狂ったように押し寄せて来るのを、辛うじて視認出来ただけであった。
その時、生徒のほとんどは校舎の外にいた。
最初、彼女達は歌苗達二人の安否について一寸の希望も抱けなかった。いや、それ以前に彼女らは目の前で繰り広げられた信じられない光景に、呆然としていたのである。
優雅な西洋建築の半分以上は今や瓦礫の山と化し、それ自体や付近の民家から上がる煙と砂塵で、その姿のほとんどが覆われていた。そして、何よりも二人の生存を絶望視させたのは、爆弾の直撃に遭ったのがちょうど医務室の辺りだったことだった。
しかし、この時点では歌苗はまだ生きていた。
気がつくと、彩乃は砂埃の混じった空気を吸い込んで激しくむせ返った。