時計
少しして呼吸が落ち着くと、彩乃は木材の下から這い出した。彼女は崩壊した階段が隙間をつくっていたせいで、奇跡的にもかすり傷だけですんでいた。
先刻までの静かな光景は見る影もなく消え失せていた。
歌苗は?
彩乃は周りを見た。崩れ落ちた梁やコンクリートの塊の中に、歌苗の姿はなかった。
「歌苗?」
彩乃は呼んでみた。
返事はなかった。
校舎はこの階段室を境にして山側の部分だけが崩壊を免れていた。
彩乃が、その廊下の奥に歌苗の姿を見つけたとき、まだ微かではあるが息はあった。
時計にもたれかかるような姿勢で倒れている歌苗を抱き起こそうと、その上半身を持ち上げようとしても、我が身を支える力を失ってしまった体は異様なまでに重かった。
名前を呼んでみても、何の反応もない。
彩乃は必死になってその肩を揺さぶり、幾度も幾度も名前を呼んだ。
彩乃は、もはや歌苗は助からないのだということを悟った。階段室からここまで、数十メートルはある。歌苗はそれだけの距離を飛ばされ、壁に叩きつけられたのだ。
しかし、そうと判っても不思議にも涙はこぼれなかった。あまりの出来事に、心がその実情を把握できていなかったからだ。時が跳躍し、置き去りにされた心は現実という地平を失って、徒(いたずら)に空回りするばかりだった。
気づくと、歌苗が薄く目を開けて、潤んだ瞳を彩乃に向けていた。
「歌苗……」
叫び出したい気持ちだったが、彩乃の口からはかすれた低い声しか出てこなかった。
歌苗の唇が微かに動く。
しかし乾いた息が漏れただけで何も聞き取れなかった。彩乃は顔を近づけて、まるで幼子(おさなご)をあやすような声で囁いた。
「何?」
ほんのわずか、歌苗の表情が動いたように見えた。
「……時計」
それは本当に微かな、声と言うにはあまりに弱々しい囁きだった。
彩乃は、目の前の時計を見上げた。その、彼女の背丈ほどもある時計は、何事もなかったかのように時を刻んでいた。
彩乃が歌苗に視線を戻したとき、時計の無事を知らせたその小さな生命(いのち)はすでにどこかへと旅立った後だった。
金色の振り子が、二人の少女の間近で揺れていた。
それは、人ひとりの死やそのまわりの者達の悲しみなど、時の流れの中ではほんのささやかな意味も成さないと言うことを、無言のうちに告げているようだった。
他の生徒達がそこへ駆けつけてきたのは、それから数分後のことだった。
そのときの歌苗の表情は、まるで遠い物音に耳を澄ましてでもいるような穏やかなものだったという。
――青い光の充ちた室内に、長い沈黙が流れた。誰も口を開こうとはしなかった。皆、その話の続きを待つように身じろぎひとつしない。
「そんな空襲、知らなかった」
みゆきが、しばらくして言った。
その空襲は、事実あまりにも知られていなかった。この都市に住む多くの人々が、それを信じようとしなかったためでもある。
それは、その空襲が極めて狭い地域に限られていたことと、この都市の住民の間に広がっていた一種の迷信のようなもののためであった。
その迷信とは、ここはある種の聖域であるといったようなものだった。しかし、これと似たような境遇にあった都市は他にも幾つかあり、その中には広島も含まれていた。つまり、これらの都市は開発されたばかりの原子爆弾の威力を試験するための、言わば大掛かりな舞台として保存されていたに過ぎなかったのだ。
それらの理由と戦後のどさくさの中で、その小さな空襲は人々から否定され、そして忘れられていった。
この事実が公けになるのは、それから五〇年近く経ったつい最近のことである。
「その校舎って、あの旧校舎のことよね?」
みゆきが、顔をしかめながら言う。
「そうよ。先刻(さっき)も言ったでしょ」
沙弥香が言った。
「で、それで怖い話ってのは終わり?」
「まさか」
御園優歌が眠そうに言ったため、沙弥香は慌てて否定した。「もちろん、それだけじゃないわ」
「夜な夜な、その辺りからすすり泣く声がするって言うんじゃないでしょうね」
みゆきが小馬鹿にしたように言う。沙弥香はそんな言葉には構わずに続けた。
「彼女はね、何よりも雷が怖いのよ。独りぼっちになってしまった、あの空襲を思い出させるから」
歌苗は雷が鳴る度に、自分が再びどこかへ追いやられるのではないかと怯えて泣くのだという。しかし、その声は耳を澄まさなければそれと判らないほどに小さく、降りしきる雨と雷の轟音にかき消されてしまうのだった。
彼女が夏を嫌いなのは、それが夕立の季節だからなのだった。そして夏という季節は、学校の広い構内から人声が長く絶える時期でもあるのだ。
歌苗は寂しがり屋だった。だから、長い間ひとりになる夏が一番嫌だったのである。
歌苗が死の瞬間まで寄り添っていた時計は、今でも旧校舎の片隅で時を刻んでいる。それは一階の廊下の一番奥の、第一美術室前にあった。
「幽霊ってね、何も夜に出るとは限らないのよ。“見える人”には昼間でも見えるのよ」
オカルト好きの圭子が言った。
「そう、圭子の言う通りよ。だから、その前をワイワイやりながら通ったりすると、自分も仲間に入れてほしくて、こうやって――」
沙弥香は、時計の文字盤から覗くという、その表情を実演して見せた。
「やめてよ、気持ち悪い!」
美依子が、しかめっ面をする。
「でも、これは本当の話よ。嘘だと思うんなら、今度雷が鳴っている時に行ってみなよ。きっと、歌苗さんに感謝されるわよ」
その後、皆は何だか話し辛くなって、そのまま夜の会合はお開きになったのだった。
しかし綾音も圭子も、なかなか寝付かれなかった。何故なら、二人とも美術部に所属しており、頻繁に美術室やその隣の準備室には出入りしていたからだ。
特に、綾音は例の時計を気に入っていて、よくその前で立ち停まっては眺めていたのだった。その時計は、英語でグランドファーザー・クロックと呼ばれるかなり大型の振り子時計だった。
綾音には懐古趣味があって、そのアンティークな時計は彼女を惹きつけてやまなかった。それに、皆は嫌がる旧校舎も、その重厚な造りがかもし出すノスタルジックな雰囲気から、彼女の好きな場所のひとつだったのである。
大階段室や鐘楼は失われてしまっていても、この校舎の風格は決して褪せてはいないと綾音は思っていた。
そして、たとえ新校舎のおまけのような形ではあっても、それを学校史の生きた証左として残しておいてくれたことに、綾音は感謝していたのだった。