時計
それは、確かに歌苗の言う通りかも知れなかった。
「いつか、小宇宙って……」
綾音が言った。
「そう。そしてそれは、即ち『大宇宙』でもあると」
「じゃあ、私達は――私の生きてきたこの世界は、誰かに夢見られているだけだって言うの?」
綾音は眩暈に襲われそうになった。
「そうじゃないとは、誰も言い切れないわ」
「いや……。そんなの、いや……。そんな――そんなことって……。嘘でしょ? ねえ、歌苗さん。嘘って言って。嘘って言ってよ!」
綾音は激しく頭を振りながら、その場にしゃがみ込んでしまった。
歌苗は哀しげな表情でそれを見つめている。
「これは綾音さんが言い出したのよ。――お願い、最後まで聞いて。私のためにも」
歌苗は、さらに囁きかけるように言った。「私は、これまで私が過ごしてきた時間を無駄にしたくはないの。――あなたはいずれ、自分の存在に疑問を抱くようになるわ。それは、私のせいよ。だから、私の今までに考えてきたことが、ささやかでも助けになればいいと……。それに――」
綾音はまるで小さな子供のように、上目遣いで歌苗を見た。
「私の総てを、あなたに伝えたいの……」
「歌苗さん……」
「綾音さんは、放っておいても、いずれそれに気づくわ」
綾音は微かに頷いた。
「話して」
「いいのね?」
再び、今度は先刻よりもしっかりと、綾音は頷く。「もう、逃げたりなんかしないわ」
聞くべきだと、綾音は思った。歌苗がそれを聞いてほしいと言っている限り、綾音はそれを聞いてやる義務があると思った。それに、この話を望んだのは自分ではなかったのか。
「分かったわ」
歌苗の目の色が、真剣味を帯びる。
「――時空って、知ってるわね」
ゆっくりと、言い含めるように歌苗は切り出した。
「ええ」
「どうして、そう呼ばれるかは?」
綾音は首を横に振る。
「それは、時間と空間が一対のものだからよ」
そう言われて、綾音はなるほどと肯いた。「時間のない空間は存在しないし、空間を伴わない時間というものもないわ。だからこそ〈時空〉と呼ばれるの。――一人の人間が生まれたとき、それはひとつの宇宙の誕生でもあるのよ」
綾音は何も言わず、歌苗の顔を凝視している。
「宇宙が生まれるということは、そこに時間と空間が生まれるということよ。そして宇宙はその時間軸のなかで、空間的な拡がりをもつようになる。
――時間がある限り、空間も拡がり続けるわ。そして、時間が停まったとき、その宇宙そのものも消滅してしまう。空間的な拡がりが停止してしまったときも同じ。それは即ち、時間が停まることを意味するから」
綾音は、果てしない思考の海を漂っていた。その海は――宇宙なのだと、綾音は漠然と認識していた。
星の海を頼りなく漂いながら、綾音は遠くに歌苗の声を聞いていた。それは、まるで星々が語りかけてくるようでもあった。
――人は皆、それぞれが造り出した宇宙の中で生きている。ただ、それに気づくか気づかないかというだけで。その時空が生まれるのは、ひとりの人間が生まれる瞬間であり、そしてその死とともに消滅する。
しかし、〈死〉というものが、極めてあやふやなものである以上、それが本当に消えてしまうのかどうかは判らないし、それを確かめることは誰にもできない。
人は死後、自らの造り上げた時空へと還ってゆくのかも知れない――。
――自らの時空へ。そう――自らの宇宙へ――。
綾音は、宇宙の 彼方の深淵から届いてくる歌苗の言葉を胸の裡で繰り返していた。
――綾音さん……。
誰かが呼んでる。
誰?
そうだ、歌苗さんだ。
綾音の心が、数億光年もの時空を超えて、現実に引き戻される。
「歌苗……さん……」
半ば夢を見ているような口調で、綾音が言った。
「大丈夫? 綾音さん」
歌苗が心配そうに覗き込んでくる。
「……私、宇宙を見ていたような気がする……」
歌苗は重々しく頷いた。
「それは、あなたのものよ」
「私の……?」
「そう」
歌苗はもう一度頷いた。
ふたりは何も言わずに、しばらくの間互いの顔を見つめ合った。
「もう大丈夫」
綾音は頭を軽く振った。
街はそのままだった。
心地よい風が、頬を撫でて通り過ぎる。
耳を澄ませば木の葉の擦れ合う音まで聞こえてきそうだった。
「ねえ」
歌苗が遠くを見つめながら言う。「もうすぐ、何もかもが終わるのね」
「……」
「私、さよならは言わないわ」
綾音には、返すべき言葉がなかった。
「私の想いは、あなたの中で生き続けるわ。それに――」
そこまで言って、歌苗は静かに首を振った。
「それに――、何?」
「いずれ、あなたにもわかる時が来るわ。――いえ、わからないかも知れない。……もし、いつか違ったかたちで再び出会えたとしても、あなたはきっと、それに気づかないだろうから。……そうね。あなたが、ここに戻って来てくれたように……」
歌苗の言葉の最後の部分は、ほとんど聞き取れないほどの囁きだった。それは、歌苗自身に向けた独り言なのかも知れなかった。
「え……? それ……って――」
歌苗は答えなかった。ただ何も言わず、綾音の瞳を見つめ返してきただけだった。
私が? 戻って来た……? それは一体――。
しかし綾音は、そのことを聞くべきではないと思った。
「綾音さん……」
綾音を見つめるその瞳は、あらゆる想いに満ちて深く澄んでいた。
「私、もう瞑(ねむ)っていいのよね……」
熱いものが体中を駆け巡るのを、綾音は感じた。
そして、その瞳から溢れてこぼれた涙は、ふたりの足元に落ちて小さな光の欠片(かけら)となって砕け散ったのだった。