時計
エピローグ
在校生代表の贈る言葉が、淡々と述べられていた。
春とはいえ、講堂の中は大勢の人が埋めているにもかかわらず真冬のように冷たかった。
すすり泣きが、すでにあちこちから聞こえている。
卒業式――。
綾音は泣かなかった。いつものことだ。もう、練習のときに充分泣いたからだ。
席に座ったまま、綾音はただ時が過ぎるのを待っていた。
綾音も圭子も、この春から晴れて大学生だ。あと一月もすれば、それぞれのキャンパスでの新しい生活が始まる。
期待と不安、そして別離(わかれ)の悲しみとがないまぜになった複雑な思いで、綾音は講堂の高い天井を見上げていた。
「校歌――斉唱――」
間を持たせた慇懃な声が響き、綾音も立ち上がった。
教室に戻ると、まだ涙で目を赤くしたままの者も笑顔になる。教室内にはいつもの騒がしさが戻っていたが、どことなく今までとは違った雰囲気のように感じられた。
天井から下がった蛍光灯の明かりにさえ、いつも見慣れてきたそれとは違い、白々としたよそよそしさを感じた。
幾つかの机の上には、大きな花束が置かれている。下級生から貰ったものだ。
美術部長を勤め上げた綾音も、ささやかながら後輩から花束を貰っていた。それを現在の部長から手渡されたとき、綾音は卒業式ではじめて泣いた。自分が送られる身だと、身にしみて感じたからだ。
担任の古瀬の短い話が終わって、皆は廊下へと出て行った。
綾音はひとり、圭子を残して出口とは逆の方に歩いて行く。
時計は、今までと変わりなく時を刻み続けている。終わりの瞬間までの無限が、いまここにある。
しばらく無言で、綾音は佇んでいた。
乾いた音が、綾音の胸の鼓動と同調していた。
もはやここに、足を運ぶ者などいない。あとは取り壊しを待つばかりの校舎に、時計だけが残されている。
歌苗は現れなかった。さよならは言わないと、歌苗は言った。
綾音も、それは言わないつもりだった。
綾音はしばし瞳を閉じ、小さく息を吸い込んだ。
息を止めて、文字盤を見つめる。視界の隅で、金色の振り子が揺れている。
「これからなんだね」
綾音はたったそれだけを言って、静かな微笑みをたたえた。
背を向けて、綾音は歩き始める。
彼女が去ったあと、ひとつだけの時報が、長く尾を曳いて薄闇に溶けていった。
《完》