時計
わけが分からない、という表情の綾音に、歌苗は説明しなければならなかった。「もっと正確に言うなら、かつてここで時を過ごした人達の思いってところね」
「じゃあ、先刻(さっき)私が見たのは……」
「ここに留まった、その人の想いよ」
想いが物に染みつくというのは、よくある話である。特に人形などは、その典型だろう。綾音はそのことを知っていて、また信じているからこそアンティークショップで人形だけは買わないのだった。人形にまつわる怪談話も数多い。
「でも、前に来たときには誰もいなかったわ」
「だから、建物が夢を見ていると言ったのよ」
「分からない……」
「いいから、先へ進みましょう。歩きながら話すわ」
歌苗は再び綾音の手を取った。この先には、大階段室がある。綾音は、そこへ行くのが怖いような気がした。
「ねえ。こんな話、知ってる?」
歌苗が言った。「人は死の瞬間に、それまで経験した総てのことを一瞬にして思い返すって……」
それは、綾音も聞いたことがあった。人はその瞬間、幼い頃のことや、もうとっくに忘れてしまっていたはずのほんの些細なことまでも克明に思い出すという。
「物は、それを長く使っていればいるほど、それを使った人の想いを留めるわ。そして、その想いが深いほど、それは深く刻み込まれるのよ」
ふたりは、大階段室に達した。
綾音は目を瞠った。
そこには、あまりにも多くの人達がいた。いや、正確には、多くの想いが形を伴ってそこにあったのだ。
綾音は胸を強打されたような衝撃を覚え、呼吸をすることさえ忘れていた。
旧校舎が、夢を見ている。自らの最期の時を知って、かつてここに想いを留めた人達の幻影を造り出している。
綾音は、立っていられないほどの深い哀しみに捉えられていた。かつて、こんなにも深い哀しみを感じたことは綾音にはなかった。失恋の、これ以上生きていられないような、胸を締め付けられる哀しみさえ遠く及ばなかった。
人々は笑っていた。そして、歩いたり、走ったり――まるで生きている者達のように振る舞っていた。
「行きましょう」
その手を歌苗が引かなければ、綾音はその場に彫像のように立ちつくしたまま、二度と動くことは出来なかっただろう。
「彼の夢の邪魔をしてはいけないわ」
ふたりは階段を昇り、吹き抜けのホールを囲む張り出し廊下を進んだ。
弧を描く階段を昇りきった所から見て真正面に、外へ出る両開きの扉があった。その向こうは、正面玄関の上に突き出たバルコニーになっていた。おそらく、校長の演説などで使われたものだろう。
そこでしばらく足を停めて、ふたりは再びホールを一周する形で通路を進んだ。
ホールを抜け、かつてのT字型の校舎の奥へと少し入った所から、狭くやや急な階段が上へと伸びていた。そこには窓のない小さな扉があるのだが、今は開け放たれていた。
「これよ」
歌苗が、その前で立ち停まって言った。
どうやら、それは旧校舎の中央にあった鐘楼に通じるものらしかった。
歌苗は、その中に入って行く。
「前には、ここには来なかったものね」
「うん。こんな所、知らなかった」
「私の、とっておきの場所なの」
綾音も、後に続いて狭い階段を昇る。
「本当はね、ここには来てはいけないことになっていたのよ」
階段の一番上の所で立ち停まって、歌苗は振り返って言った。
「でも、何度も来てたんでしょ。ここに」
歌苗が、悪戯っぽい笑みを見せる。
そこから階段は、さらに狭く急になって上へと続いていた。鐘を鳴らすための太い紐が、柵の横に見える。歌苗は上へは行かずに、目の前にあった扉を押し開けた。
眩しい光がなだれ込んで来て、歌苗が顔の前に手をかざす。
外に出ると、そこは鐘楼の基台のような場所だった。畳六帖分ほどの広さがある。
鐘楼は、下にホールがある関係から、わずかに後ろにずれている。それでもT字型をした校舎の、屋根の天辺にあることには変わりなかった。
そこからは、かつての市街が一望の下(もと)に見渡せた。
「こんな街だったんだ……」
綾音は、自分の生まれ育った街のかつての姿を感慨深げに眺めた。本やTVで見てきたものとは、あまりにもそれはかけ離れていた。
整った街並み、瓦屋根の波が遠くまで続いていて、コンクリートの建物は数えるほどしかない。現在のマンションや商社ビルが乱立した姿からは、とても想像がつかない光景だった。
綾音はそれを、美しいと思った。
川面が銀色に輝いている。そこには新幹線の高架橋などない。
そして、下の通りを走る市電の線路。
――そうか、昔はこの街にも市電が走っていたんだ。
綾音は、今さらのように思い出した。
風が、綾音の髪を微かに揺らす。
風――。
「風が、吹いてるわ」
綾音は意外そうに言った。
それを見て、歌苗は楽しげに肯いた。
「そう、小鳥達もね」
歌苗の視線を追う。青い屋根の上から、ちょうど小鳥の一群が舞い上がるところだった。
「ねえ――」
綾音は言った。歌苗は、飛び立った小鳥達の行方を、目で追っている。「いつか、言ってたよね」
歌苗が視線を戻す。
「何?」
「ほら、時間がどうとか――」
「ああ……」
「わたしには、よく解らないのよ。――今、ここにこうしていてもね」
綾音は小さく肩を竦めてみせた。
「それでいいのよ。分かってほしいって言う方が、所詮無理なんだもの」
「でも、気味が悪いわよ。わけの分からない世界にいるっていうのは」
「まあ、それもそうね。でも、綾音さんは自分の現実の世界のことも知り尽くしているわけじゃないでしょう?」
「そりゃあ、ね――。わざわざ学校で習ってるくらいだもの」
「だけど、先生達だって、総てを知っているわけじゃないわ」
「まあ……、そうね」
「所詮、人間は世界について総てを知ることは出来ないのよ。それを知るための哲学でさえ、まだまだ答えを出せる段階ではないんだから。――そう思えば、ここも大してあなたの世界と変わらないはずよ」
「でもねえ……」
綾音は困ったように唇を歪めた。
「ねえ、銃撃やなんかで脚を失くした人が、よく訴えることがあるの」
歌苗は、やおらそんなことを言い出した。「何て言うか、知ってる?」
綾音はその真意をはかりかねて、その瞳を見つめ返した。
「足の先が痒いって言うのよ。もう、そこには脚はないのにね」
「……」
「ここは、同時に二つの夢を見ているわ」
「二つの……夢……?」
「そう。一つは、先刻(さっき)も言ったでしょう。そしてもう一つは、すでに喪われたものを求めて、この校舎が見ているもの」
「じゃあ、これは全部夢なの?」
「そう言ってもいいわね」
歌苗は川に架かった橋の一つに目をやった。
市電が、その上ですれ違う。
「夢ってね、あなたは知らないでしょうけれど、それ自体が一つの現実なのよ」
「夢が、現実?」
「そう。今、あなたが感じているこの世界のように」
綾音は山に囲まれた広い市街地を見渡した。
こんなにも広い世界。それが夢で、そして――現実でもある。
「……」
「人は、夢見る生き物よ。人は生まれてから死ぬまで、自分の世界を広げ続けるわ。それは、人が夢を見続けるからよ」