時計
13. 最後の季
年が明けて、早ひと月半が過ぎた。
二月一四日。不思議と、この日を登校日や入試日にしている学校は多い。
綾音達の学校の場合は、登校日になっていた。
何も、こんな日をわざわざ選ばなくても――。一昨年までは、綾音もそう感じていたものだった。チョコレートを貰えない者や、あげる相手のいない者にとって、このような日は残酷以外の何ものでもない。出来ることなら何もしないで家で寝ている方が、ずっとましというものだ。
しかし、今の綾音には一志(かずし)という恋人がいる。わざわざ休みの日に出かける手間が省けていい、などと思ってさえいる彼女である。
久しぶりにクラスメイトが顔を合わせるということもあって、教室内は騒然としていた。
学校へ来なくなって、まだ二週間と経ってはいない。しかし、こうして自分の席に座っていると、「ああ、まだ高校生なんだ」と、しみじみ実感するのだった。
登校日といっても、特に何かをするわけでもない。一時間ばかりお説教されて、それでお終いである。
「それでは、練習の日には遅れないように」
古瀬が出席簿をたたむ。
「起立!」
後期の級長を務めた上東(じょうとう)沙弥香が歯切れのよい号令をかける。
「礼!」
音をたてて椅子をしまうと、おしゃべりの舞台は廊下へと溢れ出す。
「こら! 静かにせんか! 一、二年生はまだ授業中だぞ」
古瀬の声が響く。
「はーい」
その声も、次第に廊下の向こうに小さくなって行った。
教室には、例によって大した理由(わけ)もなく綾音と圭子が取り残された。
「練習、か……」
綾音が言った。「嫌だな……」
何故、練習などしなければならないのだろう。それは、綾音が小学生の時から抱いている疑問の一つである。
卒業式の練習。
綾音はそれが大嫌いだった。まあ、それがなければ式が無茶苦茶になってしまうからなのだろうが、演技がかった式そのものが綾音は好きになれないのだった。それにもう一つ、大きな理由がある。彼女は式の練習の最中に、それが練習だと判っていて泣いてしまうのである。
「もう泣いてるの?」などと毎回言われるのにも、嫌気がさしていた。
「これも、練習のうち」
綾音はそう言ってごまかすのだが、肝心の本番では、彼女は涙ひとつ見せないのだった。
圭子も、そのあたりのことはよく承知していて、曖昧に笑っただけだった。
「ほんとに、あと少しになったね」
圭子が言う。
「うん」
綾音は返事をしながら、同時に二つのことを考えていた。
一つは自分たちの卒業のこと。そしてもう一つは、旧校舎とそこに棲む歌苗のことだった。それらは共に、あと少しで幕を下ろしてしまうのだ。
取り壊されるのは旧校舎だけではなかった。それに隣接した形の中央棟も、その対象になっていた。中央棟は、爆撃で失われた部分を補うために、戦後間もなく建てられたものである。造りもいい加減である上に、老朽化の激しい校舎だった。この中央棟よりも旧校舎の方が傷みが少ないというのは、いかにも皮肉な話である。後には、かつての大階段室を模した吹き抜けのある、近代的な校舎が建つことになっていた。
解体に先立って、仮設の校舎が校庭の隅に姿を現し始めている。
「もう、歌苗さんとはお別れをしたの?」
圭子が訊く。
綾音は黙っていたが、その表情から、まだであることを圭子は読み取った。
「駄目よ。ちゃんとお別れをしなきゃ」
綾音は頷いた。
「後に、しこりが残らないようにね」
そう言うと、圭子は荷物をまとめて出て行った。
残された綾音は、しばらくそのまま佇んでいた。
「しこりが残らないように、か……」
峰岡裕徳はまだ見つからなかった。
それを見つけないままに歌苗の前に立つことが、どうしてもためらわれる綾音だった。しかし、このままでは圭子の言うように、本当に別れを告げることも出来ないかも知れない。
綾音はそれまで腰掛けていた椅子から立ち上がった。
廊下に出ると、途端に冷気が綾音の華奢な躰を襲った。まだ二月である。春は、まだその兆しすら見せてはいない。
ここも、この春にはなくなってしまう。綾音達の教室も、中央棟にあるからだ。自分が学んだ教室や校舎がなくなるというのは、何とも言えず寂しいものだった。卒業してから学校へ遊びに来ても、もうそこには自分の場所がないのだから。
綾音は、その廊下の感触を確かめるようにゆっくりと歩いた。旧校舎に入ると、床は板張りになる。他の棟のリノリウムのそれとは違って、木の床は踏み締めていても足元から伝わる冷たさというものがなかった。
「歌苗さん」
時計の前で、綾音はその名を呼んだ。
ここまで来たものの、やはり合わせる顔がないような気がして綾音は下を向いていた。
「まだ、捜してくれているのね」
歌苗は、うつむいた綾音の艶やかな髪に向かって言った。
「歌苗さん。私――」
歌苗は静かに首を横に振った。
「もう、いいのよ」
「だって、そんな……」
すぐ近くにいるのに、会うことも出来ないなんて……。綾音のその言葉は、発せられることなく時の狭間に消えた。
「綾音さんには、充分感謝しているわ」
「でも……」
「あなたが悲しむことは、何もないわ」
「……」
「ねえ」
歌苗が明るい声で言う。「もう、その話は終わりにしましょう」
その声音は、決して無理をしているのではなく心から明るい気持ちになっていることを示していた。歌苗は、裕徳に対する気持ちをふっ切ることが出来たのだろうか。
綾音は頷きはしなかった。まだ、わずかでも希望はあるのだ。
「あの人は、もういないのよ」
歌苗が言う。
「いないって?」
「そう、私と同じにね……」
歌苗は、しばし瞑目した。
「そんな……」
微かな微笑を浮かべた歌苗の瞳から、涙が一筋こぼれる。
間に合わなかったのだ。
その思いは、綾音から立っている力さえ奪ってしまった。
しかし、再び綾音を見つめた歌苗の目は、もう泣いてはいなかった。
「ねえ。見納めに、もう一度歩いてみない?」
歌苗が綾音の手を取る。
その手は、やはり温かだった。
幽霊の手は冷たい、などと言ったのは一体誰なのだろう。綾音は思った。歌苗の手は、こんなにも温かなのに。
場所はいつしか、かつての旧校舎のそれに変わっていた。
ふたりは大階段室に向かって歩いた。綾音としても、その荘厳な光景は、しかとその胸に焼き付けておきたいものだった。
「え?」
綾音は立ち停まった。
「どうしたの?」
「今、誰かいたような……」
そう、確かに大階段室のホールを横切る人影が見えたのだ。
綾音は、今さらながら恐怖を抱いた。
おかしな話だ。すぐ隣にいる歌苗も、幽霊であるというのに。
「ああ」と、歌苗は肯く。「夢を見てるのね」
「夢を?」
綾音は少しムッとした。「目の錯覚だって言うの?」
「違うわ。――夢を見ているのは、あなたじゃないのよ」
歌苗は弁解するでもなく言った。
見事に怒りをそらされた綾音は、間の抜けた顔をする。
「夢を見ているのは、この建物の方よ」
「建物が、夢を……?」
「そうよ」