時計
「やってみないと、分からないわ……」
歌苗の瞳を見据えて頷く。
自信はなかった。しかし、長い間孤独に耐えて来た歌苗なのだ。せめて最後の瞬間くらい、幸福な思いを味わうことができたとて、罰は当たらないだろう。そして、その権利を歌苗は有しているはずなのだ。
「ありがとう……」
歌苗は、瞳に涙を浮かべて言った。
昏い秋の黄昏が、一瞬だけ春の輝きのような明るさに包まれた。
初雪が降った。
綾音達三年生が、高校生らしい生活を送れる最後の二学期も終わろうとしていた。
「来年は、お互いに頑張らなくちゃね」
圭子が言った。
「うん……」
つい先刻、担任の古瀬から訓辞があったばかりである。
期末試験も終わった。三年生にとって、この先授業らしい授業はない。
すでに就職の決まっているものは、何とも気楽なものである。
「とにかく――」
ぼんやりしている綾音の肩を、圭子は叩いた。「ラストスパートね」
綾音は溜め息をついた。
どうも最近、溜め息ばかりついているような気がする綾音だった。
溜め息をつく度に、幸福が逃げてゆく――。昔、誰かがそんなことを言っていた。それを格言のように言っていた人は、おそらく溜め息をつきたくなる状況に出遭ったことがないのではないか、と綾音は思った。何故なら、溜め息は自然と出るものなのだから。
「どうしたの?」
黙ったままの綾音に、圭子が訊く。
「うん……」
「ひょっとして、まだ捜してるの?」
綾音は一旦手に持った鞄を、再び机の上に置いた。
「まだ、見つからないのね」
圭子が重ねて訊く。
「そうなの……」
「大体が、無理なことだったのよね……」
「何とか出来ると思ってたのに……」
それを引き受けた時点では、こんなにも難しいものだとは夢にも思わなかった。そうでなければ、無理をしてでもやろうという気は起こらなかっただろう。
電話帳では、市内と近隣の町まで調べたが、親戚の者さえその中にはいなかった。
後になって歌苗に聞いた話によると、峰岡裕徳は地方の生まれで、この都市に単身で学びに来ていたのだという。そしてその両親とは、歌苗の死の一月前に彼の生地を襲った空襲によって、連絡が絶えたままになっていた。
綾音は学校の周りの古い住宅街をくまなく歩いたり、大きな書店で住宅地図を見てみたりもした。
ほとほと疲れ果てて、もう諦めかけていたところへ、綾音はあることを閃いた。
一志である。
峰岡は、一志の通っていた高校の前身である旧制中学の生徒だったはずだ。だとすれば、古い資料にその名があるかも知れない。運が良ければ、同窓会名簿に現在の住所が記載されている可能性だってある。
綾音は自分の考えに酔いながら、それを一志に言った。もちろん、その理由は偽って。
数日後、一志からもたらされた結果は、芳しいものではなかった。
卒業アルバムは、その年代のものだけが抜けていた。入学時の写真はあっても、卒業写真そのものがないのである。同窓会名簿には、確かに「峰岡裕徳」という名は印刷されていたものの、住所その他については「不明」となっていたという。
「全く、壮絶だったよ……」
一志がそう言ったように、その頁より前になると、「戦死」や「○○年死亡」という記事がやたらと目立っていたのである。
こうなれば、いくらやる気があっても空回りするばかりだ。なにしろ手がかりといえば、名前と「学校の近く」と言った歌苗の言葉だけなのだから。
綾音はごく普通の女の子である。探偵小説のヒロインのように、頭が特別に冴えているわけでもないのだ。
「仕方ないよ。綾音は、やれるだけやったんだから」
圭子が慰めるように言った。
「そうね……。手は尽くしたんだもの……」
そう言いながらも、綾音はすっきりしない思いだった。
こんな状態で歌苗の前に立つのは辛かった。しかし、どのような結果であれ、一旦引き受けた以上は報告する義務がある。綾音は気の進まないまま、歌苗に会った。
「ごめんなさい……」
「いいのよ。もう気にしないで」
歌苗が言う。
美術部長を引退してから、綾音が旧校舎のこの辺りを訪れる必要はほとんどなくなっていた。それでも頻繁に足を向けているのは、ここに歌苗の存在があるからだ。この旧校舎には美術室の他に家庭科室などもあるが、この教室を彼女らが使うことはなくなっていた。
「はじめから、無理なお願いなのは分かっていたわ」
「私、見つけてあげたかった……」
「綾音さんのせいじゃないわ。その気持ちだけで、もう充分よ」
「ほんとに、ごめんなさい……」
綾音はうつむいたまま、顔を上げることが出来なかった。
「ほら、顔を上げて。綾音さんらしくないわ。何だか、私まで悲しくなってしまうじゃない」
歌苗が明るく言う。しかし、その明るさが却って綾音を沈ませるのだった。
「たとえあの人に会えなくても、私には思い出があるわ」
「でも……」
「あの人は、私の思い出の中。そして――」
歌苗は、綾音を真っ直ぐに見つめた。
ふたりの視線が融和する。
「私は、あなたの思い出の中……」
ふたりは、そのまま動かなかった。
「それで、いいの?」
歌苗は深く頷いた。
綾音は、歌苗の言葉の意味を思った。
歌苗の思い出の中に裕徳がいて、そして――歌苗は間もなく綾音の思い出になる。いつか綾音が誰かの思い出になるとき、彼女の中のそれまで共に引き継いでくれるのだろうか。
それは、気の遠くなるような話だった。
しかし、考えてみれば、その思い出の中の人物にも、その人が確かに存在していた以上、思い出はあったはずなのだ。ただ、他の者が後にその人の思い出までも共有出来得るか否かというだけのことなのだ。
綾音は、まるで大海を漂うような漠然とした思考の中で、そんなことを考えていた。
旧校舎の解体は、来年の春休み中と決まった。あと、四カ月もない。歌苗が思い出となる日も近いのだった。
「歌苗さん」
綾音は言った。「本当に、それでいいの?」
「……会いたいわ、とっても……。でも、仕方のないことだもの……」
歌苗は目を閉じた。
「捜してあげる……。何としてでも」
そんな歌苗の表情を見ていて、綾音はいたたまれなくなった。
「これ以上、綾音さんの時間を割くことは出来ないわ」
「大丈夫よ、私は。――私には、その次もあるんだから」
綾音と違って、歌苗には残された時間はわずかしかない。
「私は、あなたの未来まで壊したくはないの」
「それこそ、何とかなるわ」
綾音は胸を張ってみせた。実際のところ、かなり不安ではあったのだが。
「無理しないで」
「うん。分かってる」
「私が行けたらいいんだけど……」
歌苗は申し訳なさそうに言った。
「この近くにいるって、いつか言ってたよね」
綾音が訊く。
「ええ」
「でも、いくら捜してもそれらしい人はいないの。歌苗さん。どの辺りなのかは判らないの?」
歌苗は、しばし考え込んだ。
「それは、判らないわ……。でも、とっても近くに感じるのよ。そうね――」
歌苗は、どう説明したものかと悩んでいるようだった。「そう、何だか、じっとこちらを見つめているような……」
「歌苗さんのことを思って?」