時計
秋の日は急速に暮れてゆく。いつまでも夏のつもりでいると、知らぬ間に黄昏が街を染めていて驚くことになる。
綾音は窓を閉めた。
淡い黄色の光が部屋に射し込んでいる。
窓の形に切り取られた光の、その一番奥まったところだけが奇妙に朱く映えていた。
綾音はひとり、美術室を出ると鍵をかけた。
その鍵音は、まるで綾音のここでの数々の日々を封印するかのように、乾いた音を心に響かせた。
そう、まだ早い。
しかし、少なくとも美術部長としてここの鍵をかけるのは、これで最後だった。
まだ早い――。
綾音は再び心に念じた。
時計の前で立ち停まると、綾音は手に持った鍵を文字盤にかざして軽く鳴らした。
「終わったわ……」
「ええ」
しばらくして、歌苗がその透き通った声で言った。「私がいなくても、あなたは立派にやり通したわ」
「そんなことないわ。歌苗さんのおかげよ」
「私、何もしてないのに?」
「歌苗さんがいなかったら、私、ここまでやれなかったと思う」
「そんな……。その素質は元から綾音さんの中にあったのよ」
「でも、それを目覚めさせてくれたのは歌苗さんよ」
そこで綾音は、少し言葉を切った。「だから……、ありがとうって――」
「……」
廊下はそこを歩く人もなく、静かに秋の黄昏に沈んでいる。
「最後の学園祭なんだね」
綾音が言う。
「え?」
「うん――。私にとっても、ここにとっても、これが最後になるんだなあって……」
「そうね……」
歌苗が寂しげな目をする。「それに、私にとってもね……」
「歌苗さん?」
「何?」
「私は、歌苗さんの期待に充分に応えることが出来たのかな」
「どういうこと?」
歌苗は怪訝そうに訊き返した。
綾音はそれには答えなかった。
しばらく、黙ったまま見つめ合う。
「その答えを出すのは、まだ早いと思うわ」
歌苗が、やがてゆっくりと言った。
綾音は静かに頷き返しただけで、何も言わなかった
そう、まだ総てが終わったわけでは決してないのだ。
静かに時は流れる。
綾音は今年の学園祭を、半ばこの旧校舎の送別会のように思っていた。
それが終わってしまった後で、総てが終わったと感じたとしても、それはやむを得ないことだった。
〈現実の中の異空間〉
それは即ち、歌苗のいるこの旧校舎を指していたのだ。
多くの少女達が、その若き日のたった三年間を過ごしたこの空間。ここには確かに、その少女達一人ひとりの現実があった。青春時代という夢と現実がないまぜになった時季をここで過ごし、そして去って行った。それだけに、それらの幻影がここには残されているように、綾音には思えるのだった。
「歌苗さんも、旧校舎(ここ)で夢を見たの?」
沈黙を破って、綾音は言った。
「夢?」
「そう――。歌苗さんも、夢を見ることくらいあったでしょう」
「夢、ね……」
歌苗は焦点の定まらない目で言った。
「私の生きた時代は――」
途切れ途切れに、歌苗は語り始めた。「そんな時代じゃなかった……。確かに、夢は見ていたと思うわ。ただ、それが長続きしなかっただけで……。ささやかな夢なんて、一瞬にして非情な現実に呑み込まれてしまう時代だったもの」
「戦争ね……」
綾音は呟いた。「私、悪いこと訊いちゃったのね」
「いいのよ。気にしないで。――でもね、これだけは憶えておいてほしいの。戦争で壊されるのは、兵器や都市だけじゃないってこと。もっともっと、そのただ中にいる多くの人達の内面に立ち入って、ささやかな夢や希望さえ踏みにじってしまうものだということを」
綾音は、深く頷いた。
戦争は、人々の生活までも破壊してしまう。そして子供達から未来を奪い、愛する者同士を引き裂く。それが戦争なのだ。その渦中にある人々の苦しみや悲哀――。それこそが、戦争の本質なのだろう。そう、それが人間という存在の弱さであるが故に。
人間は、単に数ではない。その人間の数だけそこには現実があり、夢があるのだ。
「でも、どんなに小さくても夢はあった……」
沈鬱な空気を破って、歌苗は言った。「夢を見ずには、人は生きてゆけないものね」
そして寂しげに微笑んだ。
綾音は、自分が今にも泣き出しそうな顔をしているのが分かっていた。
「歌苗さん……」
「泣いちゃ駄目よ」
歌苗が言う。まるで幼子を諭すように。「今はまだ、涙を見せる時じゃないでしょ」
綾音は無理に微笑んだが、それは歪んだわけのわからない表情になってしまった。
泣いちゃいけない。
そう思うほどに、綾音は泣きたくなるのだった。
泣きたくない時に涙が出る。まだその時でもないのに泣いてしまう。これは綾音の癖のようなものだった。
卒業式の練習の時に泣けてきたり、悲しくもない映画で涙したりもした。しかし今の感情は、それまでに経験したどれとも違っていた。
「ねえ、綾音さん」
「……」
綾音は返事をすることが出来なかった。
「――お願いがあるの」
言葉にすることが出来ない分、綾音は表情だけで応えた。
歌苗は、そんな綾音の心が鎮まるのを待つように、しばらく黙っていた。
「言って……。私に出来ることなら――」
綾音はかすれ声でようやくそれだけを言って、歌苗を促した。
歌苗が頷く。
「捜してほしいの」
「え?」
綾音は間の抜けた声を出した。
「あの人を、捜してほしいの……」
「あの人って……」
それは、聞くまでもないことだった。
「裕徳(ひろのり)さん……」
そう言って、歌苗はうつむいた。
峰岡裕徳――。それは、生前の歌苗の恋人だった青年である。
「でも、その人は確か……」
綾音は言い澱んだ。そう、彼は死んでいるはずなのだ。
「生きているわ」
歌苗は、はっきりとそう言った。しかし、その一言は綾音を驚かせるには充分だった。
「でも……」
「私には、分かるの」
「でも、それをどうやって捜すの?」
綾音は不安になった。とても安請け合い出来ることではない。男だから姓は変わっていないとしても、この都市(まち)にいないとなると捜すのはかなり厄介になる。電話帳というもっとも安易な手段がほとんど無効になるからだ。
「彼は、近くにいるわ」
綾音のそんな思いを承知しているかのように、歌苗は言う。
「近く……?」
「そう。――でも、私は行くことが出来ないの。私は、過ぎ去った〈時〉の幻のようなもの。私にとっては、ここが唯一存在を許された場所なのだから……」
「ええ……」
それは綾音にも分かっていた。歌苗は――そう、この旧校舎の精のようなものなのだと。
「お願い。もう一度、あの人に会わせて」
囁きかけるように、歌苗は言った。
今、歌苗の世界が喪われようとしている。それがいいことなのか、それとも悪いことなのか、綾音にはまだ判らない。だが、それが一つのピリオドになるということだけは明らかなことだった。
その時を前にして、歌苗は自らの身に迫り来るものの正体を、すでに悟っているのかも知れなかった。
「やっぱり、無理ね……」
綾音の難しい顔を見て、歌苗は見るも憐れなほどに落胆した。「――ごめんなさい……」
綾音は胸が詰まる思いだった。
そして、綾音は言った。