時計
12. しゃぼん玉
「終わっちゃったんだね」
綾音が言った。
「うん」
「これで、私達もお祓い箱か……」
椅子に腰掛けたまま、綾音は大きく伸びをした。
「お祓い箱、ねえ……」
圭子が苦笑混じりに言う。「でも、まだやらなきゃいけないことが、山ほどあるわ」
「そりゃそうよ。圭子には、体育祭の方も頑張ってもらわなくちゃいけないもの」
「何言ってるの。体育祭には綾音も出るのよ。――まさか、サボるつもりじゃないでしょうね」
「リレーでしょ」
綾音はうんざりしたように言った。「分かってるわよ。ビリでもよけりゃ、走ってあげるわよ」
「ビリは余計よ」
「でも、何だか気が抜けちゃったね」
綾音は溜め息をつく。「これで終わりだと思うとさ」
「まだ気を抜かないでよね」
圭子は広い室内を見渡した。
そして、綾音も。二人は揃って溜め息をつくのだった。
綾音達三年生にとって、高校生最後の学園祭は終わった。
正確に言えば、圭子の指摘通りまだ体育祭が残っているのだが、やらされるという印象の強い体育祭は、どうしても心浮き立つ学園祭の枠外にあるものと見なされがちだ。
しかし圭子の方は、そうはいかない。何と言っても生徒会副会長なのだ。少なくとも、体育祭が終わるまでは。
「何から手をつけたらいい?」
綾音は美術室に展示された作品群をあらためて眺めた。
「考えても仕方ないわ」
圭子が言う。「まず動くことよ。そうしたら、自然と何をやったらいいのか分かるわ」
さすがに何もしない生徒会長の下で苦労して来ただけあって、圭子はこういう場合の要領を心得ている。
「でも――」
綾音が言いかける。
「何?」
「他の人が来るのを待った方がいいんじゃない?」
ここには、圭子と綾音の二人しかいない。圭子がここにいるのは、準備の時、ろくな働きをしなかった生徒会長に後片付けを押し付けてきたからだった。
「みんな忙しいのよ。いるものだけでやった方が早いわ」
圭子はすでに、作品の一つを取り外しにかかっている。
仕方ない。綾音はおもむろに立ち上がった。
準備するのには一カ月もあるのに、片付けるのは一瞬だ。そう思うだけで、気ばかりが焦ってしまう。
とりあえず、出来ることからやってしまう。それしかなさそうだった。
掛けてある作品をはずし、一箇所にまとめてゆく。大体のものは昨年の使い回しなので、来年もまた使うことになるだろう。簡単に組んだだけの角材は、一応解体して部屋の端に積み上げた。しかし、大した量ではない。そもそも美術部は、部員数自体が少ないのだ。
「後は後輩に任せよう」
綾音が言った。「その方が、ためになるわ」
「どうして?」
「どうせまた来年も使うんだったら、自分達の都合のいいようにしまった方がいいと思って」
「――とか何とか言って、本当は邪魔くさいだけなんでしょ」
圭子の言葉は辛辣だ。
「まあね。でも、あの子達、来年も同じことするわよ」
綾音の言うように、その可能性は大だった。彼女以外の部員は手伝いこそしたものの、企画など考えることは全て綾音に任せっきりと言っても過言ではなかった。綾音なき後、彼女達が自ら考えて、何か新しいことをするとは思えなかった。
「まあ、どうでもいいわ。部長さんにお任せする」
圭子が言う。「――とにかく、疲れた」
「ご苦労さん」
「これで終わりじゃないってのが、悲しいね」
「それを選んだのは自分なんだから。文句言わないの」
「うん。それは分かってるんだけど。――ああ、体がだるい」
「どう?」
その場にへたり込んだ圭子に、綾音は明るい声で言う。「とりあえず、第一ラウンド終了ってことで――」
「何?」
「打ち上げ」
「打ち上げ? 少し早いんじゃない?」
「いいの、いいの。とにかく、パーッとやりましょ。少しは気が晴れるかも知れないわよ」
綾音は、圭子の手を取って無理やり立ち上がらせた。
門の外では、一志が待っていた。
他でもない、綾音の彼氏である。
そして、その隣で手持ちぶさたに塀にもたれているのは――。
「謀(はか)ったな!」
圭子は、綾音の脇腹を小突いた。
そう、それは圭子の恋人だったのである。
翌日は準備日になっていた。展示等の後始末と明日の体育祭の準備のためだ。
立て看板や角材を資材置き場へと運んでゆく生徒や教師。中庭は特に酷いありさまだった。まさに、兵(つわもの)どもが夢の後。骨組みだけになったモニュメントが、元はそれについていたベニヤ板や布切れをそこらじゅうにばらまきながら、未だにそこに鎮座していた。
「終わった、終わった」
一、二年生に後片付けを任せて、元通りになった美術室でふんぞり返って綾音が言った。
「後は、後輩にバトンタッチね」
圭子が言う。
「これで、やっと部長の重責から解放される」
「大げさね。はた目には、結構楽しんでるように見えたわよ」
「まさか」
真顔になった綾音を見て、圭子は笑った。
「私は私で、結構大変だったのよ」
「分かってるって」
なにしろ自分からは何もしようとしない後輩達である。展示のための作品すら、当日の朝になってようやく出揃ったくらいなのだ。一つ二つしか歳は離れていないにもかかわらず、最近の若い者はと愚痴もこぼしたくなる。
そのあたりの苦労は、何もしないくせに偉そうにだけはしたがる生徒会長に振り回された圭子にはよく解るのだった。
「さて、と……」
圭子が腰を上げた。「こっちは一応、一段落したことだし――」
「もう行くの? もっとゆっくりしてればいいのに」
「私にはね、やらなきゃいけないことがいっぱいあるのよ。明日の打ち合わせもあるし」
「そう、大変ね」
気の毒そうに、綾音が言う。
「仕方ないわ。私には、まだ明日があるんだから」
「明日がある、か……。そう言うと、何だか聞こえだけはいいね」
圭子が出て行った後、綾音はしばらくぼんやりしていた。
心地よい風が窓から入ってきて、白いカーテンが波打っている。
綾音は大きく息をついた。
後輩達には、片付けが終わったらそのまま帰っていいと言ってあった。おそらく、わざわざ戻って来たりはしないだろう。
美術室は普段の姿に戻っていた。
綾音は昨日までの賑わいを思い返していた。
〈現実の中の異空間〉
それが、今年の展示の主題だった。
会場には、昨年の評判もあってかなりの人が見に来ていた。中には大学の美術講師もいたと言うから驚きだ。その人物は、圭子の作品の前でやたら長い時間立ち停まっていたという。
それは、女の子の絵だった。女の子が、しゃぼん玉をふくらませている。そして、そのしゃぼん玉の中には「世界」があった。
綾音はその絵を見たとき、寒気を感じさえしたのだった。
『あのままふくらませていったら、その先は一体どうなるのだろうか』
答えは明白だった。
「それは言わないことよ。――未来は、判らないのだから」
歌苗の言葉を思い出す。そう――それは言うべきことではない。綾音は、歌苗が何故あんなことを言ったのかを悟った。
「圭子は、美大に合格するだろうな」
綾音は呟いた。
陽はすでに傾きかけていた。