時計
圭子はその間、ずっと綾音の傍にいた。何も言わず、微動だにしないままで。
果たして圭子は、このことをその記憶に留(とど)めておくことが出来たのだろうか。綾音はついに、そのことを訊くことはなかったし、圭子も何も言わなかった。
「よかったね、綾音」
「うん」
圭子に返事をしながら、これで本当によかったのだろうかと綾音は考えていた。
古いものはなくなって当然なのだろうか。綾音は旧校舎を気に入っていただけに、複雑な心境だった。
あの校舎も、ずっと残しておけばいいのに――。
そうも思う。
しかしそれが残っている限り、歌苗は古時計の中の時間に捕らわれたままなのだ。いつまでも傍についていて話し相手になることは、綾音には出来ないことだった。
そう、綾音には綾音なりの現実があるのだから。
あの校舎がなくなれば、当然そこにある時計もどこかへやられてしまうだろう。たとえ別の場所に置かれるとしても、永遠に時を刻むことを止(や)めてしまうかも知れない。ずっとそこにあったものが、他の場所へ移された途端に理由もなく壊れてしまうというのは、よくある話だった。
あの時計が停まれば、歌苗の生きている時間も停まる。いや、その古時計の刻む時間の軛(くびき)から解き放たれると言った方がいいのか。それによって歌苗が本来帰るべき時の流れに戻れるのなら、それは歌苗の言ったように「いいこと」なのかも知れなかった。
『未来は判らない』
そう、その時が訪れるまで。
人にとって未来とは、予測することは出来ても体験することは出来ないものなのだから。
「何を考えてるの?」
圭子が訊いてくる。
「うん。ちょっとね……」
初秋の陽が、少しばかり傾いていた。一番暑い時間帯はすでに過ぎていたが、街はまだむせ返るような熱気に包まれていた。
茅蜩(ひぐらし)が澄んだ声を響かせている。
二人の白いブラウスが、陽の光を浴びて眩しく輝いて見えた。
「もう、夏は終わったんだね」
綾音が言う。
「そうね」
「最後の夏服か……」
綾音は感慨深げに言った。
「圭子――」
「ん?」
「ずっと、友達でいようね」
「何よ、いきなり」
圭子が照れ隠しに大げさに言う。
「いいじゃない、べつに」
「何がよ」
「たまには、こんなこと言ってみるのもさ」
綾音は、よく晴れ渡った空を見上げた。
西に連なる山並みの向こうに入道雲が白く輝いて見える。それは、去りゆく夏が別れを惜しんで振り返っているかのようだった。秋はもう、すぐそこまで来ているはずだった。
「うん――」
圭子も、綾音の目線を追って言う。「たまには、いいかも知れないね」
そして二人は互いの顔を見ないまま、遠い空に向かって微笑んだ。