時計
大椴は、そこで急に真面目くさった顔になった。とは言っても、元が少々ふざけた顔つきなので、大した効果もなかったのだが。
「この話をどこで聞いたのかは知らんが、あまりそこらじゅうに触れ回らないでくれよ」
「分かってます。先生こそ――」
「大人をからかうもんじゃない」
綾音に言われて、大椴は柄にもなく赤くなった。「――いずれ公に話があると思うが。まあ、そういうことだ。よろしく頼むよ」
「はーい」
二人は同時に返事をした。
「やっぱり、本当だったんだ」
大椴が去ってから、綾音が言った。
「損したような得したような、妙な気分ね」
圭子が言う。
「どうして?」
「だって、そうじゃない? これから入って来る子達は新しい校舎で勉強出来ることになるのよ。でも、沙弥香から聞いた怪談は、もう昔語りになるわ。そうでしょ? あの話は、旧校舎あってのものなんだから」
綾音は、そんなことなどどうでもよかった。
「歌苗さん……」
綾音は我知らず、そう呟いていた。
「綾音……?」
圭子が心配げに綾音の顔を見る。
「歌苗さん!」
そしてそう叫ぶなり、綾音は廊下へと飛び出した。
薄暗い廊下で、それは相変わらず時を刻み続けていた。
綾音は時計を見つめた。
以前ならすぐに現れた歌苗の姿は、くすんだ文字盤の硝子の向こうに消えたままだった。
綾音は辛抱強く待った。もう、意地を張ってなどいられない。
いつの間にか圭子が傍に来て立っていた。二人して、恐ろしく長く思える時間をそうやって過ごした。
文字盤が淡い光を放ち始める。しかし、それは明るくなったり暗くなったりするものの、いっこうに歌苗は現れてこなかった。
「歌苗さん。ごめんなさい、私……」
綾音は、姿の見えない歌苗に言った。
『卒業しても、ずっと私のことを忘れないでいてくれる?』
あのとき、歌苗はそう言った。しかし綾音はそれを「泣きごと」と片付けてしまったのだった。
『卒業しても――』
その言葉は、この夏の綾音自身の言葉でもあった。
「ごめんなさい。私、歌苗さんの気持ちを解ってあげられなかった……」
淡い光源を見つめて、綾音は涙声で言った。
それでも、歌苗は現れない。
綾音はうつむいてしまった。その瞳に、涙が溢れている。
涙の滴が板張りの床に落ちて弾けた。
綾音の肩に手が置かれる。顔を上げると、圭子は黙って肯いてみせた。
そしてもう一度、綾音は呼びかけた。文字盤の輝きが増し、やがて歌苗が姿を現した。
歌苗はいつだったか昔の学校を案内してくれたときのように、また、ともに学園祭を経験したときのように、かつての制服に身を包んでそこに立っていた。
「歌苗さん……」
そう言ったきり、綾音は言葉を失くしてしまった。歌苗が正視に堪えかねるほどに哀しげな表情をしていたからだ。
「ごめんなさい……」
歌苗は、ほとんど吐息のようなかすれ声で言った。
綾音は静かに頭(かぶり)を振った。声に出すと、今にも泣き出しそうだった。
長い間、二人はただ見つめ合っていた。
その間、綾音は堰を切って溢れそうな感情を、どうにかして鎮めようとしていた。
「歌苗さん、私……」
辛うじて綾音はそれだけを言った。
「いいのよ。もう……」
歌苗が、優しく言う。
「どうして……」
「あなたは、もう知っているわ」
歌苗が真っ直ぐに見つめ返してくる。その視線は綾音の視神経を透過し、脳裡で不思議な幾何学模様を描き出した。
そう、綾音は知っていた。親しい人と離ればなれになることへの不安を。
愛しい人と別れなければならず、自らは時計の中の“失われた時の幻”に成り果ててしまった歌苗。そんな歌苗にしてみれば、せっかく親しくなれた綾音と別れることは、この上なく辛いことなのだ。
「友達……失格ね」
綾音は言った。
「そんなことないわ。こうやって、また会いに来てくれたんだもの」
「うん……」
「私、綾音さんには謝らなければと、ずっと思ってたのよ」
歌苗が目を伏せた。長い睫毛が光っている。それは涙かも知れなかった。
「私だって――」
「ううん。あなたは悪くないわ。悪いのは、私の方なんだもの」
「自分を責めないで。歌苗さんは、もう充分に苦しんだわ」
「……ありがとう」
歌苗が微笑む。しかしそれは、あまりにも寂しげな微笑だった。
綾音はあまりのせつなさに、身をつまされる思いだった。そして、旧校舎がなくなることを歌苗はすでに知っているような気がした。
「私ね――」
そんな綾音の思いを見透かしているかのように、歌苗が言う。「もうすぐ、お別れをしないといけないかも知れない」
「……」
沈黙がふたりの間をたゆたう。
綾音は、歌苗の瞳から目を離せなかった。
「知っていたの?」
綾音が、ぽつりと言った。長い沈黙の中で、その言葉だけが孤独に浮き立った。
歌苗は瞳だけで頷いた。
「それを知っていて、歌苗さんは――」
「それは言わないで。――いずれこうなることは、誰の目にも明らかなことだったから」
「でも……」
「川は、流れ続けるものよ」
「川?」
突然に何を言い出すのかと、綾音は訝しげに思った。
「そう――、川よ。時の流れは、よく川にたとえられるわ」
「ああ」
それでようやく綾音は、その言わんとしているところを察した。
「川には急流もあれば澱みもある。ずっと同じ姿で流れているわけでは決してないわ。たとえそれは目に見えなくとも、流れは常に変わり続けるわ。小さな澱みは、やがて本流に呑み込まれるか、干からびて消えてしまうしかないのよ」
歌苗は大きく息をついた。
「その澱みが、歌苗さんの時間なのね……」
「……」
「じゃあ、歌苗さんは……」
「いつか言ったでしょう。私には判らないのよ、何も――。その時間の中にいる者には、自らの未来を知ることは出来ないのよ」
「……そうかも知れないわね……」
綾音は広い大地を滔々(とうとう)と流れる大河を思った。
川のような時の流れ、その取り残された澱みに息づく小さな生命(いのち)。川はやがて、海に流れ込み――。
綾音は身震いした。そんなこと、私に判るはずがない――!
「やっと、自由になれるのよ、私」
その言葉とは裏腹に、歌苗は寂しげだった。それが却って綾音の心を強く締め付けた。
「でも……」
「それはそれで、おめでたいことだとは思わない?」
「でも、消えてしまうかも知れないんでしょう?」
「未来は判らないと、先刻も言ったはずよ」
「ええ……」
「それに、私はもう死んでるのよ。少なくとも、これ以上死ぬことはないわ」
「……」
「ほら、顔を上げてよ。どうして泣くことなんかあるのよ」
うつむいてしまった綾音を励ますように、歌苗が言う。「まだ泣くには早すぎるわ。ね?」
本当は、励ますのは綾音の役目のはずなのに、歌苗は自分が哀しいのを堪(こら)えて努めて明るく振る舞おうとしている。それが判るだけに、綾音はかけるべき言葉さえ失って、歌苗を見ていられなくなるのだった。
「綾音さん……」
「うん。分かってる。――まだ、泣いちゃいけないんだよね」
涙の光る瞳で、綾音は精一杯微笑んでみせたのだった。