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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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時計

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 そこはかつて、歌苗が峰岡裕徳と出会ったその場所でもあった。

「ねえ、今日のお昼、ちょっと付き合ってくれる?」
 綾音は、筆記具をまとめて鞄にしまっている圭子に声をかけた。
「何よ。えらく真面目くさった顔して」
 圭子はそこまで言うと、声を密めた。「彼氏と喧嘩でもしたの?」
 綾音と一志が結構上手くやっていることを、圭子は知っている。
「違うわよ」
 綾音は即座に否定した。
「いいわよ。忙しいって言ったって、暇も同然なんだし」
 圭子は快く承諾してくれた。
 美大を受験することに決めた圭子は、本格的に絵の勉強を始めていた。勉強とは言っても、その時間の大半は素描(デッサン)に費やされている。家にいるのはほとんど夜くらいのもので、大抵はそこら辺にあるものを手当たり次第に描いているようだった。授業中でも、教師や前の席の生徒の姿をノートに描いているのを、綾音は知っていた。
 それでも圭子は、綾音よりも授業の内容をよく理解していた。それが綾音の不思議に思うところだった。
 期末テストの最終日。最後の科目は綾音のもっとも嫌いな数学だった。しかも、メインは幾何。しかしテストの出来はともかく、試験は全て終わった。
 皆、もう夏休みということもあって、その顔は輝いている。
 高校生最後の夏休み。それは、ある者にとっては学生生活最後のものとなる。受験組もさることながら、数少ない就職組はかなり派手に計画を練っているようだ。幾つかのグループに分かれての賑やかな談笑の舞台は、教室から廊下へと移って行った。
 あらかた生徒たちが帰ってしまった後、綾音と圭子は学校を出た。
 彼女達の通う学校は、上に大学と短大を控えている。そのため、この近辺には瀟洒な店が数多くあった。二人はその中の一つに入った。
「なかなか頑張ってるね」
 綾音が、水を一口飲んで言った。
「うん。何とか自分の形になってきたと思う」
 美大などの素描での選考は、まず何の特徴もないものから除外される。ただ綺麗なだけでは駄目なのだ。そこで求められているのは“個性”である。人目には下手に見えても、そこに光るものがあれば才能が認められる。圭子が「自分の形」と言ったのは、そういうことなのである。
 運ばれて来たコーヒーを少し冷ましてから、綾音は何も入れずにカップを口に運んだ。
 それを見て、圭子が目を瞠る。
「そんな飲み方、いつ覚えたの?」
「一志がね、いつもこんな飲み方をするの」
 さらりと綾音が言う。
「歳上なんでしょ?」
「うん」
「呼び捨てにしてるの? えらく妬かせてくれるじゃない」
 そして、圭子は身を乗り出して訊く。「おいしい?」
「うーん、どうだか。でも、こうやって飲むとコーヒーの美味しさが判るって言ってた」
 そこまで言って、綾音は小声になった。「それに、不味さもね」
 そう、ここのコーヒーは、お世辞にも美味いとは言えなかったのだ。
「まあ、ダイエットにはいいでしょうね」
 圭子は言った。そして、綾音がサンドイッチにかぶりついているのを見て、付け加える。「でも、綾音にはあまり関係なさそう」
 綾音は口を動かしながらも、圭子を睨んだ。
「ところで――」
 圭子が思い出して言う。「何か、話すことがあったんでしょ?」
「あ、そうだった」
 圭子は、そんな綾音に溜め息をついたのだった。
「――それはまた、厄介なことになっちゃったものね……」
 綾音の話を聞き終えた圭子は、難しい顔をして言った。「で、私にどうしろと言うの?」
「べつに、そんなつもりはないんだけど……」
 綾音は口ごもった。「こういうこと話せるの、圭子しかいないから」
「それにしても、幽霊と喧嘩しちゃうなんてね……」
 圭子は半ば呆れたような、複雑な表情をした。
「したくてしたんじゃないわよ」
「まあ、そんな人はいないでしょうけど。――幽霊にも、情緒不安定な時期ってあるのかしら」
「そう幽霊、幽霊って言わないでよ。何だか馬鹿みたいじゃないの、私が」
「でもねえ……」
 圭子は、完全に冷めてしまった紅茶を飲み干した。「綾音、ほんとは仲直りしたいんじゃないの?」
「うん……。て、言うか、気になるの」
「じゃあ、もう一度行ってみたら?」
「でも、あの人はもういないのよ」
 綾音は下を向いた。
「そんなこと、分からないわよ。隠れてるだけかも知れないじゃない。向こうも、きっと同じこと考えてるわ。お互いにいつまでも後味の悪いままでいるくらいなら、思い切って行動した方がいいと私は思うけど」
「うん……」
 綾音は歯切れの悪い返事をした。
「ま、いずれにしても、綾音の気持ちの整理がつくまでは無理みたいね」
 圭子とは、店を出た所で別れた。クロッキー帳を持っていたから、これからまた絵を描きに行くのだろう。綾音はついて行ってもよかったのだが、邪魔になりそうな気がしてやめておいた。
「結局は、私の問題なのよね」
 綾音はひとり、歩きながら呟いた。
 駅へ出るのは面倒だった。彼女はバス停を目指していた。そのバスは一時間に一本しかないのだが、彼女の家の近くまで行く。しかもそこが終点なので、眠っていても乗り過ごすことは決してないのだった。
 確か、これくらいの時間にバスはあったはずだと、綾音は記憶をたぐり寄せた。
 そして――。
 そのバス停に行くには、国道を渡らねばならなかった。バスは彼女が信号待ちをしている間に、目の前を横切って行ってしまった。信号が青になったのは、バスが行ってしまってから、ゆうに一分も経った後だった。

 小さな灯りが点いていた。
 いつの間にか眠り込んでいたらしい。
 汗だくだった。当たり前だ。この時期、クーラーもかけずにいたのだから。部屋には昼間の熱気がまだ残っている。窓は帰って来た時のまま、開け放たれているはずだった。
 外はもう、暗くなっていた。小さな灯りは、豆灯のものだった。そう、蛍光灯を消した後に残る、あの赤っぽい光だ。
 綾音は天井を見つめたまま動こうとしなかった。汗で湿った衣服の不快感に包まれながら、綾音は考えていた。
「卒業、か……」
 綾音は声に出してみた。
 卒業することは出来るだろう。しかし、進路をどうするかは、まだ決められないでいた。もっとも、彼女の学校の生徒のほとんどは、そのまま上の大学か短大に行く。
「本当に勉強する気なら、短大ではなく四年制の大学へ行け」
 それが父の意見だった。綾音の学力で大学を受験することは、さほど難しいことではなかった。綾音としても大学へは行きたいのだ。しかし、「勉強したいのか」と問われれば決してそうではなかったし、かと言って遊びたいわけでもなかった。
 やりたいことは、大学へ行ってから見つければいい――。
 漠然と、綾音はそう思っていた。
「卒業か……」
 高校に入学したとき、そんなことは考えてもみなかった。それは言わば当然のことで、入学して間なしに考える者などいないだろう。しかし、いざそれが自分の身に迫って来ると、高校の三年間というものがいかに短いものであるかが分かるのだった。
 ぼんやりしている間に過ぎてしまう――。この三年間は、まさにそういうものなのかも知れなかった。
作品名:時計 作家名:泉絵師 遙夏